60歳からの未来

雑感

もうすぐ60歳になる。同級生と会って話をする。ぼくの場合は、新城小学校という山の中で住んでいたので、中学校時代からの友だちが多い。13歳の時に出会った友だちとの縁が深く、今も親しく付き合っている。都会に出て、新しい知り合いができて、そこから人生が展開していくのもいいだろう。仕事によって知り合った人々との関係の中には、都会に出て知り合ったという感じの人も多い。ぼくの場合は、大学時代に4年間和歌山市内で生活したので、そこで得た友人が多数いる。こういう人々との交流が今もある。

しかし、同級生との関係には特別の意味がある。同時代を生きてきたという実感があるとともに、子どもの時代を一緒に生きてきたことがなんともいえない共通性として存在している。子ども時代からつながっている顔が、今の顔の背景にあって、60歳を迎えた顔をそのまま見ているのではなくて、若い頃の顔がそのまま見えているというような感じがある。

「写真見たら驚くで」
「こんなに老けてるか」
という意見があった。こういう意見の後には、若い時代の姿が張り付いている。

人生は短い。20代から60歳まで40年間。仕事に就いて以降の30数年間は、次第に圧縮されていく。最初の10年は新しいことの連続だったが、それ以降の30年近くは、同じことの繰り返しの中に発生してきた数多くのできごとに彩られている。それはしかし、すべてが未知との遭遇というものではない。同じ枠組みの中での変化というものだった。ぼくが議員になってからの30年間は、激しい変化の中での30年間だったが、枠組みは基本的には変わらなかった。もちろん、議員になって以降に結婚したので、結婚前と結婚後とは、家族を形成したという点で大きく変化した。しかしそれでも、議員生活という枠組みの中での変化だった。

あっという間に人生の時間は経過する。小学校の教室の黒板の上に2000年までの年表が張ってあった。もちろん未来のことは年表にはなくて、写真で埋められていたが、1970年から先の未来をイメージするものだった。10代はじめのぼくは、30年後の自分の姿をイメージすることはなかったし、2000年以降の自分を考えることもなかった。ずっと先にある未来を下から眺めていた。しかし、今は40歳の自分を20歳も通り越して60歳という地点にいる。

「あと10数年で人生は終わり」
「ぼくは明日しかない。病気をしたから先のことは考えられない」
10数年先のことを語った女性の発言を受けて、男性の友人はこう答えた。
みんななるほどと思った。
「一日一日を精一杯生きようという気になる」
この言葉は重かった。

病気を抱えはじめ、体と向き合い始める年齢になって、体を通じて老いを感じる入り口に立っている。もうすでにそれを強く実感している友人もいる。

人生は短い。学問はなり難い。そのことを考えると生きている内に、新しい視点や視界にさらに出会いたいと思う。自分で新しい視野を開く。今の時点にとどまらない。こういうように生きれたら幸せだと思う。まずは65歳まで。まだまだ新しいことに挑戦して、新しい峰に向かいたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明