具体と抽象

雑感

具体と抽象について、過去にもこのブログに書いたことがある。しかし、読み返してみると、書いた本人でさえ、自分の思考展開を追いかけるのが難しいと感じた。

毎日ブログを書いているが、自分で書いたことを覚えていない。他人の人の名をイニシャルで書いた記事もあるが、一体誰のことを書いているのだろうと思うこともある。まして、論理的な展開を試みて書いた文章となると、覚えていないし、自分が書いたものかさえ不確かになってくる。

過去の「具体と抽象」に対する考察が、成功しているのかどうか。
この問に対する答えは、一言でいうなら「難解だ」ということになる。つまり思考の展開が成功しているとは言いがたいということになる。できの悪いいびつな建造物を見ても正面玄関さえ分からないようなものになってしまっている、という感じだ。

そういう言い訳をした上でもう一度、具体と抽象について考えてみたい。
具体と抽象。まず思うのは、すべての事物は極めて具体的に存在しているということだ。具体的な存在としてすべての事物は自分たちの意識の外にある。

自分たちの意識の外にある具体的な存在をどのようにして捉えるのか。
この問いに答えるためには、具体的なものの本質に迫っていくための抽象化が必要になる。具体的な物事を具体的に見極めるためには、抽象的な思考の力を借りた分析が必要になる。ここに具体と抽象の関係がある。

書いていることが、分かるだろうか。
人の顔。目と鼻と口と顔の輪郭と髪と耳。人の顔のパーツはこれで成り立っている。自分の顔と木村拓哉さんとは、顔の作りがまるで違う。しかし、目と鼻と口と顔の輪郭と髪と耳があるのは同じ。言葉としての目と鼻と口と顔の輪郭と髪と耳という言語は、具体的な個性を持った顔のパーツを抽象的に表現したものだろう。つまり、具体的な人間の顔を言葉で表そうとすると、たちまち抽象化が始まるということだ。言語というのは、具体的な物を言葉で表すことによって抽象化しているということになる。

書いていることが分かるだろうか。
言葉によって人間が具体的な事物を表現すること自体、必ずそこには抽象化が存在せざるをえないということだ。言葉と具体的な事物とのこの関係を知っているのと知っていないのとでは大きな差が生まれてくる。言葉は、必ず具体的な事物の抽象化を含まざるを得ない。

具体的な事物を理解するためには、言葉で捉えることがどうしても必要だという点については、誰も異論はないだろう。
言葉で具体的な事物を捉えようとすると、たちまち事物の抽象化が始まる。この点についても誰も異論はないだろう。

では、
具体的な事物を深く把握するためには、どうしても抽象的な概念にもとづく分析や総合が必要になる。
この点はどうだろうか。
言い換えよう。抽象的な概念なしに具体的な事物の具体的な把握はできない。抽象的な概念なしに具体的な事物の分析と総合はできない。ここまで論理を展開すると、「うん?、どういうこと?」ということになるのではないだろうか。

具体と抽象は切っても切れない関係にある。具体的な事物の具体的な分析には抽象化が必要であり、抽象化する力、言葉でいえば概念の力をかりないと具体的な事物の具体的分析はできない。しかも、抽象化には、たえず現実から乖離して具体的な事物からかけ離れていく危険性があるので、分析の作業は、具体的な事物に繰り返し立ち返り把握する努力が必要がある。
客観的に存在している現実というのは具体物以外にはないので、この具体的存在である事物が根源にあって、抽象的な力は分析のための道具になるということを忘れてはならない。

現実は極めて具体的。抽象的な概念にもとづく分析は、具体的な現実を読み解く道具。しかも抽象的な概念は、現実から乖離する危険性を常に持つので注意が必要。
こういう関係を念頭に置いて、物事に接近する必要がある。

徹底的に具体的な事物を具体的に把握する。これが基本。それを踏まえて抽象的な力を借りる。そうすれば、物事の本質に迫ることができる。抽象的な力を借りた分析にはまり込んで、現実をそれで解釈するようになると、具体的な物が主で抽象的な概念が従という根本的な関係が逆転してしまう。論理の乖離は、ここから生まれる。多くの議論の誤りはここにある。

もっと厳密に議論を積み重ねる必要がある。しかし、今日は具体と抽象についての基本、アウトラインを示すことに重きを置いて書いてみた。
むつかしいだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明