学校に取材に行った

出来事

一般質問のために小学校に取材に行った。コロナ対策のために学校の負担は、かなり大きくなっていた。学校の工夫で大きなクラスは2つに分割され、音楽室と多目的室は、教室になっていた。20人程度の学級が必要だという判断が国から出ているのに、国はわずか3100人の教職員の増員だけでことを済まそうとしている。消毒だけでも負担が大きくなっているのに人的な動員は、各学校ごとにどれだけ実現するのかはまだよく分からない状態にある。

「先生方に頑張っていただきたい」
県の教育長は自嘲気味にそう答えたが、頭を下げてそう言ってすむような話ではない。
安倍内閣は、コロナ問題では世論に押されながら対策を講じているが、出てくるもの全てが必要な規模や量に達しておらず、現場や国民に苦しみを与え続けている。医療現場の苦しみにさえ十分な施策を講じていないので、このままいけば肝心の医療機関の経営が成り立たない状態になる。
医療崩壊はしていないと胸を張った首長もいたが、それは医療現場の頑張りによって辛うじて維持していたものであり、首長が胸を張って強調して自慢するような話ではない。

はじめから限界の見えている世界で頑張っていても、次のコロナの波がやってきたら持ちこたえられないことが見えているのに、何となく「頑張ればいけるだろう」というような姿勢を示している。これが今の到達点だ。日本は、戦前無茶苦茶な計画によって多くの日本兵を餓死させた国として、同じような過ちを、今度はコロナ対策で演じてしまおうとしている。

学校現場で話を聞いていると、限界まで頑張ってうまくいかないのは仕方がないことだろう、というような状況を作りたいのかと思ってしまう。今回ほど、国の施策の必要性を痛感することはない状況なのに、国に意見を言っても届かないよね、ということですませてしまっているような状況がある。

ポストコロナ対策、ポストコロナの政治と経済を考えて、社会のあり方を変えるためにも、安倍内閣には退陣を願う必要がある。コロナ対策を通じて、マスクでも持続化給付金でも息のかかった会社の利益優先という姿勢が見えてきた。国民の生活が危機に直面しているのに、政治の世界では、自分たちの利益を上げることに一生懸命という姿は見苦しい。桜を見る会の追及を逃れるために黒川氏の定年を延長し、訴追を免れたいという根性、そのことに熱心でコロナ対策は後回しだった初動、いいカッコをして、3月に突然学校を休校にし、同時に学童保育と保育所、こども園を通常運営することを求めたこと。施策の一貫性のないことを平気で国民に押し付けてきたことには、怒りを禁じ得ない。

ようやく、自民党な中からも安倍首相を見放す動きが出てきているが、ここまで無責任な政治を展開してきた責任は大きい。

自分たちの身の回りの生活の場で、できることから始める中で、必要な要求を積み重ねていくことを考える。そのときに、国に根本的な改善を求める姿勢を強めることは忘れないで貫きたいと思っている。政治を変える力は、生活の場、国民の一人一人が生きる場にある。

警察官による黒人男性の殺害に対して、アメリカでは政治が動きはじめている。怒りの広がりの速さにも驚くが、この怒りを受け止めて政治を変えようとする動きの速さにも驚く。日本には何かが欠けている。その違いは、おそらく民主主義の血肉化、深さにあるように感じている。

国民主権に勝る権利はないし、国民主権に勝る権力はない。そういう方向で政治を動かしたい。


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出来事

Posted by 東芝 弘明