羊と鋼の森

雑感,出来事

「本を注文して」
ぼくは本屋さんなのか。そう思いながら言葉を発した。
「メモして」
「画像送るわ。名前ちゃんとわからん」
世代の差を感じた。自分の欲しい本のタイトルさえ覚えていないのと、メモをめんどくさいと感じる感覚に。
Amazonがコマーシャルをはじめた。佐川急便の社員のようだった。「巨大な倉庫」を走り回っているイメージが重なる。
そう思いつつ、Amazonでボタンを押している。iPhoneでの「今すぐ買う」は、2段階「決済」に変更された。押し間違いがあるからだろう。ボタンを押すと、Amazonの社員さんがスタートダッシュするようなイメージがある。
送ってくるのはLINEだが、画像を送るという約束はしかし、果たされていなかった。

「本を読んでいたら文章が書きたくなることはありませんか」
という問いに対し「ない」と答えた人のことをブログに書いた。『羊と鋼の森』を読みながら、このやりとりを思い出した。なんて繊細なリズムのある文章だろう。小説はピアノの調律の話だった。娘に「この本面白いよ」と手渡すイメージも浮かんできた。音を文章で表した作品を実際にピアノを弾く娘はどう感じるだろうか。そこに意識が動く。

文章で動作を描くことを重ねると、固有名詞について知らないことが多いことにきづく。どうすれば読み手にイメージとして届くのか。これはなかなか難しい。今、目の前にヤカンがある。お湯が沸いたらピーと音の鳴るヤカンなので、注ぎ口のところに黒いプラスチックの蓋が付いており、蓋の真ん中に穴が開いている。この穴を蒸気が通るとピーという音が鳴る。沸騰前は音がならない。どれだけの勢いでこの穴を蒸気が通れば音がなるのか。そこにこのヤカンの工夫がある。ほんとうは、道具にはすべて固有の名前がある。ヤカンの口についても専門用語がある。もりろんヤカンの口に付いている蓋にも名前があるだろう。物の細かな名前は、労働の中で生まれる。部品を組み合わせていくときに、人間と人間の意思疎通が必要になる。「それ」とか「これ」では伝わらない世界が生産現場にはあるので、細かい部品にも名前が生まれる。
しかし、そういう細かい部品の名前を読み手も知らない。名前を書けばイメージが湧くかといえば、そう単純な話ではない。文章の中で分かるように名前を示したあとは、その名前を書けば相手にイメージとして伝わる。さらりとした描写の中に必要な言葉を置いて、よどみなく文章が書ければいい。説明をしてはいけない。説明をし始めると、描写ではなくなる。細かな説明を積み重ねていくとその文章は「取扱説明書」になる。

文章は奥が深い。表現の仕方は千差万別。事実は一つであっても、その事実の山に登る方法は無限に存在する。このことを知っていれば、物事を自分の言葉で語ることができるだろう。奥の深さは、分け入ってみないと分からない。多くの文章に出会って、「上手だな。こんな文章は書けないな」というような思いをもって、「書きたいな」とも感じて「書いてみる」ことなしに文章はうまくならない。
どんな世界にも深い森はある。それを知らないで生きるのはもったいない。


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雑感,出来事

Posted by 東芝 弘明