個人の尊厳とは何なのか?

雑感,政治

もうすぐ秋ですね。
ここ4日間、一番書きたいことになかなかたどり着かないまま、ブログを書いてきた。今日はいよいよ書きたいことに肉薄できるかな、と思っている。
世論調査で菅政権が高支持率を得ている。マスメディアのキャンペーンによって、国民の目が苦労人・菅義偉さんに集まり、パンケーキ好きの庶民派だという感じで、田中角栄さんのときのような、今太閤現象が起こっている。
苦労人の中には2つのパターンがある。一つは、何クソと思って権力の座によじ登った人。この人は庶民のしんどさを知っているので、権力者としてより一層庶民に冷たい政治を実行する。
もう一つは、自分が味わった苦労を味あわなくてもいい社会をつくりたいと願って、まわりの人のために努力をする人。
戦後の日本の中で後者の人も多かった。こういう人々は戦争だけは二度とごめんだという立場にも立った。

日本を再び戦争に参加させてもいいと思っている菅さんは、ほんとうに苦労人として庶民の心の痛みが分かる人なんだろうか。この視点は、現在菅さんに好印象を持っている人にも問いかけたい。そこに本当の庶民派としての姿勢はあるのだろうかと。

4分の3もの国民が菅さんを支持している。そのなかでぼくは菅さんを支持できない。ぼくや日本共産党の存在はマイノリティーになっている。では、ぼくたちは4分の3の人にどう働きかけるべきなのか。
「国民を信頼して、国民に依拠して運動しよう」という日本共産党は、この4分の3の人々の気持ちにどう働きかけたらいいのだろうか。これがこの4日間、一番書きたかったテーマだ。このテーマにたどり着くまでに3日間の文章があった。

飛躍しているように見える議論をしてみたい。
中国の日本の戦争に対する態度のことが思い浮かぶ。中国政府は、日本国民に対して、戦後戦犯を裁く軍事裁判で「上官の命令、軍の命令を受けた日本兵士に罪はない」という態度を取った。この態度は、アメリカとは明らかに違った。アメリカは、B級戦犯などに対して、「どうしてあなたは捕虜虐待を行ったのか。国際法に違反していたのを知っていたのか」という問いを立てた。日本兵の多くは、「上官の命令だったから逆らえません」と言った。この答えに対してアメリカはどうしても理解できなかった。それは、一人の人間として、国際法に違反した理不尽な命令には、自分の良心に従って反対すべきではないのか。──これがアメリカの民主主義だった。ここには、個人の尊厳とは何かという問題が横たわっていた。

中国の軍事裁判のときの〝上官の命令だったから従っただけで日本兵には罪はない〟という態度には、拭いがたい違和感を感じる。ぼくの父親は、支那事変に参加して何人もの中国人を殺害した。その中には民間人が数多く含まれていた。父親は戦後酒浸りになって、酔っ払うと軍歌の「麦と兵隊」を歌っていた。父は戦後も戦争の中にいた。自分の手で殺してしまった中国人のことに苦しんでいたと思う。「何人中国人を殺したか分からない」という言葉を父はぼくの従兄弟にしゃべっていた。
ぼくの父は、中国流にいうと、上官の命令だったから罪はないことになる。そんな単純な話だろうか。少なくとも父は、戦争をずっと引きずって生き、内臓を壊して入院し、退院してきた日に浴びるように酒を飲んで、そのまま死んでしまった。死ぬために酒を飲んだような感じだった。

中国の考え方は、戦後の日本にも生きていた。日本共産党の国際部長だった緒方靖夫さんの自宅を盗聴したのは、警察だった。盗聴事件の裁判で裁判所は、盗聴を実行した警察官は上官の命令を受けて行ったので罪には問われないと主張した。警官が犯した犯罪。それを実行した警官は罪には問われない。命令に従っただけだ。この見解は、中国が軍事裁判のときに取った態度と同じだった。

中国の論理は、もう少し突き詰めると、組織の命令に部下が従うのは当たり前で、従った部下には責任がないというものになる。それは結局一人一人の人間の人格を認めていないのではないだろうか。中国や緒方さんへの盗聴事件の警官に対する判断には、人間個人の尊厳というものが含まれていない。少なくともアメリカは、戦後の軍事裁判の時点で、一人一人の個人の尊厳とその責任というものを理解していたように感じる。

この極端な例を引いたのは、この例と世論調査で菅政権を4分の3の国民が支持した問題は、どこかでつながっていると感じるからだ。どこがどうつながっているのだろうか。
日本共産党は、よく国民を信頼して運動しようという。これは何ら間違っていない。
この問題に踏み込んで議論をし始めると、ひとつは、国民の大多数が小泉政権や安倍政権、菅政権への支持には、国民意識の不確かさや危うさ、ある種のはかなさ、軽さという問題が潜んでいる。こういう議論のなかで国民の意識の不確かさに言及すると、どうも「国民を信頼しないのか」という議論になってしまう。
日本国民の世論調査に現れた意識のもろさ、つまり前日まで30数パーセントだった支持率が60%に跳ね上がることについて議論が深まらない。国民の意識の変化に対して問題点を指摘しはじめると、ブレーキがかかってくる。
どうしてこういう傾向の議論になってしまうのだろうか。

上に書いたような議論は、ごく一部の傾向なのかも知れない。この傾向は、日本共産党に蔓延しているようなものではないだろう。日本国民の意識の危うさはどこから生じているのだろう。この問いは立ててもかまわないし、追求し探求してもかまわない。ぼくはそう思っている。この問題でも問われているのは,個人の尊厳ではないだろうか。

どうして昨日まで安倍政権に不支持を表明していたのに、安倍さんが辞任したら安倍政権の支持になるのか。この問いで大いに議論すればいい。そう思っている人は多いと思われるので、実際に思っている人に意見をぜひ聞きたい。そこには明確な理由もあるだろう。そこには日本の政治をどう考えているかという認識もあるだろう。

一人一人の国民と政治について対話するときに、ぼくは一人一人の個人に届くような訴えをすべきだと思い始めている。ぼくの大阪の同級生は、選挙に行かないまわりの人に、どうして選挙に行かないのかを問いかけ、政治とは何かを考えるような会話を重ねていた。一人一人に働きかけ、いっしょに考えるなかで、政治について考えなかった人が政治について考えはじめる。自分の思いに問いを立てて政治との関係を思い直す。こういうことがないと変化は起こらないのではないだろうか。

橋下徹さんや山本太郎さんは、街頭演説と言うよりもトークのような語り口で演説をしている。呼びかけて働きかけるような語り口だ。ぼくたちの演説とどう違うのか。間違っているかも知れないが、彼らが語りかけているのは個人なのではないだろうか。一人一人の個人に語りかけて考えてもらう、いっしょに考える。こういうことがトークのような語り口を生み出しているのではないだろうか。一人一人の国民が主権者として、自分の頭で政治を考えはじめることがすごく大事になっている。

そのときに「あなたはなぜ菅さんをいいと思ったのか。どこを支持したのか。政治的にやってきたことがその支持を判断する中には入っていたのか」──こういうことをいっしょに考える中で一つでも二つでも政治について考えよう。そこからはじめよう。こういう呼びかけが大事なのではないだろうか。それこそが一人一人の尊厳を大切にする働きかけなのではないだろうか。

国民を信頼するからこそ、4分の3もの国民が支持している菅さんのことをいっしょに考える。その中で政治のことを自分のこととして捉えよう。この4日間、一番書きたかったのはこのテーマだった。すぐにここにたどり着かないところに一つの山があった。ここまで書くと、最初の小さい山を登ったような感じになった。


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雑感,政治

Posted by 東芝 弘明