「矛盾論」って大丈夫か?

雑感,哲学

「弁証法のことを説明するなら矛盾についてもっと説明すべきですよ」
参加者の1人がそう言ったのを聞きながら、違和感を感じていた。
『矛盾論』を書いたのは毛沢東だ。
ネットで読めるものを読んでいくと、毛沢東の矛盾の捉え方がかなり乱暴だなと思った。
対立物の統一という概念は、1つのものの中にある相反する2つの傾向(性質)を基本としている。「対立物の統一とその中での矛盾」とか「対立物の統一と闘争」とも呼ばれる「対立物の統一」の法則で一番の中心は、対立物の統一ということである。1つのものの中にある相反する二つの側面というのは、事物の研究を通じて具体的に明らかにされるべきものであり、ぼくは、必ず闘争の状態にあったり、激しく矛盾しているというのは違うと思っている。したがって「対立物の統一」というのは、きわめて一般的な状態を示しているだけなので、具体的な事物がどのような状態にあるのかというのは、その具体的事物の解明によって明らかにすべきであって、それ以上の一般化は、誤りを含んでしまうということだ。

毛沢東の矛盾論というのは、対立物の統一を矛盾としてとらえている。これ自体は間違っていない。出発はきちんと対立物の統一を規定しているのに、次第に1つのものの相反する2つの側面から離れ、ありとあらゆる矛盾を論じて、すべてのものは矛盾した状態にあり、この矛盾を克服することの必要性を論じるに至るという乱暴なものの見方になる。これは、弁証法ではない。
弁証法は、客観的弁証法が基本であり、具体的事物の具体的研究を基礎とする。したがって対立物の統一という事物の把握の仕方も、具体的事物の具体的研究を通じて、徹底的に事物の性質を把握することによってたどり着けるかどうかという問題である。
弁証法的見方でありとあらゆる問題に対して矛盾を発見し、その解決方法を明らかにすることが弁証法だというのは全く違う。この方法だと矛盾論を把握すると自分のものの見方がいきなり弁証法的になって、悟りを開けるような感じになる。
こんなものは弁証法ではない。

具体的事物の具体的探求を通じて、具体的事物の法則性を明らかにするというのが、弁証法の基本であり、その点で弁証法の研究方法は、人類の培ってきた研究方法とそんなに違わない。差異に注目して分類すること、分類を通じて、差異と関連性や共通性を十分に把握すること、その研究の上に立ってもっと幅の広い関連性を明らかにしていくこと、つまり連関と連鎖の中で事物を把握し直すこと、その上で今度はもう一度事物そのものに分け入っていき、その事物の成り立ちそのものをより一層詳しく研究すること、それをするためには、歴史的研究が欠かせないこと。その事物の歴史を研究することは、生成と発展、消滅のプロセスを把握することになり、その事物の運動を把握することになる。こういう作業を通じて(場合によっては、人間の一生よりも遙かに長い時間がかかる)、事物の運動が把握できるということだ。
対立物の統一は、すべての事物の存在の仕方に深く関わっていることだが、その事物がどのような対立物の統一として存在しているかは、徹底的で具体的な研究を通じてのみ明らかになる。
弁証法のものの見方をふまえて、現実を理解するというのは、大事な観点ではあるが、これを乱暴に行うと極めて恣意的に現実を裁断することになる。毛沢東の矛盾論は、結局この誤りを犯している。

マルクスは、「現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまた経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的である。」と書いた。これが弁証法的な研究の基本的態度だということだ。物事の矛盾を捉えて、すべての物事を弁証法的に捉えよなどという姿勢はマルクスにはない。

マルクスの資本論は、商品の分析を行い、商品には使用価値と価値があることを突き止めたが、これはマルクスの天才的な閃きによって発見されたものではなく、商品とは何かという問いを具体的に追求した結論として具体的に導き出されたものだった。マルクスをして、どれだけの時間がこの解明のために費やされたのか。弁証法を学ぶとすれば、マルクスが、商品の二つの側面を把握した研究のプロセスこそを学ばなければならない。

マルクスやエンゲルスは、客観的弁証法と主観的弁証法に分けて弁証法を捉え、言語によって支えられている認識論である主観的弁証法の世界は、客観的事物の反映として成り立っていることを明らかにしてきた。
人間が言語を通じて捉えている事物というのは、客観的な現実を相対的に、近似的に反映するものなので、その出発において、たえず抽象化と不十分さを含まざるをえない。
たとえば、りんごという言葉には、すでにかなり多くの抽象化が含まれている。具体的事物のあらゆる特徴を言葉で把握するのは、不可能に近い。りんごであれば、写真や図案を補助として使うとともに、糖度などを数値化して表し、それが人間の味覚にどう影響するのかも明らかにしても、なかなか食感などは伝わらない。

言語が客観的事物を近似的にしか反映できないという特徴が、主観的弁証法を複雑にしている。この出発における不十分さによって人間の認識は、極めて多面的な誤りを含む可能性をもっている。
矛盾が弁証法の核心だといい、人間の認識を通じて把握できる矛盾が、弁証法的な捉え方の基本だというのは、主観的弁証法と客観的弁証法をごっちゃにしてしまう可能性をもっている。
弁証法の基本は、あくまでも具体的事物をして、具体的に貫かれ、客観的に存在しているところにある。これに接近する方法は、マルクスやエンゲルスが明らかにした事物の真理への接近の方法にある。弁証法の一般的な法則は、事物の具体的な存在と運動を解明する導きの糸としての役割を果たす。毛沢東の矛盾論は、事実を把握する方法として展開されている。これは、人間の結論を事物に当てはめて裁断する方法に陥ってしまうという点で、主観的な観念論に突き進んでしまうという大きな問題をもっている。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感,哲学

Posted by 東芝 弘明