認識論についての覚書

雑感

人間の認識というのは、人間のすべての感覚を通じて生まれる意識の一つの形態だと思う。それは、外界を反映したものだ。人間の意識や認識は、何らかの外界の反映という側面をもつ。
反映としての意識が、どうして、鏡のように外界を写し取りだけではなくて、外界にないものを認識し、新たなものを世の中に生み出すのか。
電気製品などを見ていると、外界にないものをたくさん人間の技術によって生み出してきた。ダイソンの扇風機には羽根がない。一体どのようにして風を起こしているのか。
羽の付いた扇風機というものがあってこそ、羽のない扇風機が開発された。いきなり人間は、羽なしの扇風機を創造した訳ではない。人間の技術の進歩によって、羽がなくても扇風機が作れるという認識が生まれて、あの扇風機ができたということだ。歴史的に形成されてきた技術によって、全く今までになかったものも作り出せるようになった。

外界にないものを認識できる根源は、言葉を使って外界を反映しているところにある。言葉は、集団で生活してきた人間の社会的産物として生成してきた。人間の声帯がどれだけの種類の発音を可能にしているかは知らないが、人間の声帯は、他の動物と違って実に多様な音を出すことができる。言葉は、人間同士の意思を伝達する信号として、発達してきた。地域によってその信号が違うのは、集団で共有した信号が違うからだ。言語の多様性はここに原因がある。「りんご」といえば赤いりんごをイメージできる集団もあれば、Appleと言ってはじめてりんごをイメージできる集団もある。

具体的な果物であるりんごを伝える言葉である「りんご」という言葉は、具体的なりんごという果物に対応した言葉であり、言葉の中でも非常にシンプルなものだ。この「りんご」よりもシンプルな名詞は、人の名前などの固有名詞だろう。ぼくは、言葉の中でもシンプルな言葉である「りんご」でさえ抽象性を含んでいることを書いてきた。抽象性というのは、言い替えれば近似的にりんごという果物を反映していることを意味する。近似的に反映するというのは、現実のりんごを100%言い表していないし、言葉で100%現実の事物を言い表すことができないことをも意味している。

言葉は、発達の過程の中で次第に物事を分類してきた。この分類は、自然科学の発展とともにあった。りんごは果物の一つである。この果物という言葉は、きちんと内容が規定された概念(カテゴリー)と呼ばれるものだ。イチゴは、厳密にいうと果物ではない。農林水産省は「果実的野菜」に分類している。なぜイチゴが果物でないかというのは、明確な分類による。人間は、外界に存在している物質を徹底的に分類し、同じ傾向をもつ物を分けてきた。分けていくと分類しがたい中間的な物質がたくさん存在することが見えてくるが、分類は人間の認識を大きく発展させた。この人間の認識を発展させる上で概念は大いに役立つものだった。果物、穀物、野菜、根菜、芋類などの分類は、農産物というさらに大きな概念に分類される。人間は、自然科学の発展とともに概念を構築し、この概念を構築することによって、客観的な事物に分け入り、物資に対する認識を具体的に深めてきた。抽象的な概念を発達させることによって、具体的認識を深めてきたというのは面白い。ここには、具体と抽象の弁証法がある。

しかし、言葉は、外界を近似的に反映する言葉を通じて外界を認識してきたが、言葉は、形成された言葉の力を使って、物語を生み出したりしてきた。人間は、言葉を活用して外界を近似的に反映し、目に見えないものも概念で把握してきた。そのことを通じて言葉がもつ具体的物質のイメージを、実際の外界とは離れて再現したり、全く架空の話さえも生み出した。
日本の最古の物語の1つは、「竹取物語」だが、この物語は、月に人間が住んでいて、地球の人々とは違う文明があり、人間としても違う成長の仕方をすることが描かれている。この「竹取物語」は、日本最古のSFだと思われる。「竹取物語」は、外界を近似的に反映する言語を活用して、外界にないものを言語の力によって生みだした物語だった。

動物の牙は、肉をかみ切る力を持っているが、この牙から石やりを作り、さらに発展してナイフを作ってきた。石やりもナイフもこの世には存在しなかった物だが、外界に存在する何かから想像して石やりやナイフを作り出してきた。肉を切るという点で、現在ではレーザーメスや水によるカッターも生み出されている。携帯電話やスマホもこういう積み重ねの結果として存在している。外界にない道具や商品は、製造され社会的に普及されると、今度はそれが現実になって、さらにそれらの生産物が意識にさまざまな影響を与え、新しい物を生み出して行く。
1980年代初めには想像もできなかったスマートフォンによる便利な世界が、人類共有の道具として活用されている。写真や楽曲(レコード以降)や映像は、ある時期まで人間が物理的に運ぶしか方法がなかった。1985年の御巣鷹山に墜落したジャンボジェット機の事故の時は、記事や写真を送るのにかなり苦労が伴った。今はスマートフォンがあれば、映像も含めて沖縄の記事を東京に送ることができる。1985年には想像もつかなかった道具が、日常生活の中にとけ込んでいる。

言語に着目して、人間は新しい、外界にないものも想像して生み出すことができるということを書いてきた。人間が深く物事を考えることができるのは、言語の力によっている。人間の創造力を考えるときに言語との関係は切っても切れない関係にある。近似的にしか外界を認識できない言語という特徴が、新しい物を生み出す最大の力になってきた。
社会に働きかけて新しい物を生み出そうとする人間は、言語を鍛える必要がある。本を読んで視野を広く持てというのは、自分の言語能力を豊かにせよということでもある。概念をきちんと理解して、言葉の力を活用し現実に分け入って行くこと、これが、新しい物を生み出すときには、必要な力になる。
この世になかった物を新たに生み出すためには、言語能力を豊かにする必要がある。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明