十五社のクスノキと佐藤春夫の校歌 2005年6月12日(日)

かつらぎ・発見伝

「十五社」と書いて「じごせ」と読む。近畿最大のクスノキが笠田小学校の校舎のすぐ北にある。
このクスノキの幹の太さは、13メートル40センチだという。
幹の太さとは、どこをどうやって計るのかよく分からないが、クスノキの中では、22番目ぐらいの大きさである。
環境庁が平成元年に行った第4回自然環境保全基礎調査、巨樹・巨木林調査(別名、緑の国勢調査)を参考に、上位の50本を紹介したリストでは、近畿最大、全国第43位だった。

日本の巨樹 ランキング TOP50
最近、自分で撮影した写真は、ご覧のようなものだ。興味のある方は、  十五社の樟  で検索すれば地図付きのデータにアクセスできる。

5月24日の日記で十五社のクスノキと校歌について少し書いた。その後、少し文献を集めてみたので、書いてみたい。
笠田小学校は、明治8年(1875年)妙楽寺というお寺を校舎にして出発した。妙楽寺の境内にあるのが十五社の樟(クスノキの漢字はこの「樟」を使う)である。当時は、明倫学校と称した。明治18年(1885年)には百光小学校と合併して、東小学校となり、21年(1888年)には、開智小学校と合併し笠田尋常小学校となった。当時の生徒数は130人だった。明治26年(1893年)には笠田尋常高等小学校となり、高等科を併設している。
大正14年(1925年)には、天皇の写真をまつる「御真影奉安庫」が作られている。子どもたちは、学校に到着するとこの御真影奉安庫に最敬礼して校庭に入るようになった。
昭和16年(1941年)には、笠田国民学校に改称している。年表には、同年9月「長期戦に備える為、官公署学校の鉄材回収をなすこととなり、学校も校門扉及び新校舎階段のてすり等提供す」(原文はカタカナ)とある。
この年の12月8日、日本は真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争を引き起こした。翌9日、笠田国民小学校では、「宣戦の詔書奉読式を行ひ神社参拝あり」と記されている。年表には、勤労奉仕や開墾、奉仕作業という言葉が続き、19年には、大阪市丸山国民学校児童集団疎開を受け入れている。
昭和20年(1945年)8月、「ポツダム宣言受諾の詔書を聞く」とある。これは8月15日に、天皇の玉音放送を学校に集合して聞いたのだと思われる。
同年10月、疎開児童が大阪に帰るので駅に見送っている。
昭和21年(1946年)1月10日、御真影を県庁に奉還するため、全員で奉送している。同年3月、「修身国史地理の教科書整理」とある。教科書に墨を塗らせ、回収し誤った教えを改めさせたのかも知れない。
同年10月、戦後1年目にして、高等科児童に書食に甘藷(さつまいも)給食をはじめている。
食糧難は、この笠田という田舎にもあったのだろう。まだ学校給食法が制定されていない
時代の必要性から給食が始まったということだ。
昭和21年11月3日、日本国憲法が公布され、翌年5月3日施行されている。
昭和22年(1947年)戦後の学制改革により、笠田国民学校は、笠田小学校と笠田中学校となった。新しい憲法と教育基本法(昭和22年3月31日施行)にもとづき、戦後の6・3・3・4という教育体系が確立した中での新たな出発だった。
昭和24年(1949年)には、炊事場が完成し、児童給食実施とある。学校給食法ができる5年前に笠田小学校で給食は実施されていた。しかし、この給食制度がどのような形で終了したのか、年表では確認できない。
明治22年(1889年)の市制町村制施行時の笠田村は、大正9年(1920年)6月1日、笠田町になり、昭和30年(1955年)3月31日、大谷村及び四郷村と合併して伊都町に、さらに昭和33年7月1日、伊都町は、見好村(見好村と天野村は昭和30年3月31日、合併して見好村になっていた)及び妙寺町と合併してかつらぎ町になっている。大谷村の学校給食だけが残り、笠田小学校で実施されていた学校給食は、いつしか消えてしまった。給食の廃止が合併と関係があったのか、なかったのか定かではない。

十五社の樟は、笠田小学校の歴史をずっと見つめてきた木だ。戦後、校歌を作るときに、当時の岡田嘉一郎校長先生(故人)が、和歌山県新宮市出身の歌人、佐藤春夫氏に校歌作成を依頼し、昭和26年(1951年)3月、校歌が作られている。佐藤春夫氏が、この笠田の地に来て、樟を見てこの校歌を考えたのかどうかは、笠田小学校の百年史では確認できなかった。
現地に来ていなかったとすれば、誰かが、十五社の樟と笠田小学校の歴史を佐藤春夫に手紙か何かで説明し、作ってもらったと思われる。

5月24日にブログに書いたが、もう一度、校歌を紹介したい。

1、笠田の里よ わがまちよ 葛城山の 山すそに
十五社(じごぜ)の森を とりめぐり 人むつまじく 栄えゆく
2、大樹の樟(くす)よ わが庭よ 千年(ちとせ)の命 貴(とうと)しと
十五社の森の 下かげは 至誠(まごころ)の児童(こら) 集うなり

1番にある葛城山というのは、那賀町にある山のことだ。この葛城山を校歌に詠んだことによって、この校歌は、かつらぎ町の笠田小学校の校歌としても生きることとなった。
校歌が制定された昭和26年(1951年)3月は、まだ笠田町だった時代であり、昭和33年(1958年)にかつらぎ町が誕生することを誰も具体的には考えられなかった時期のことだ。
かつらぎ町という町名は、笠田町と妙寺町、見好村が合併するときに付けられた名前である。しかし、文献で見る限り、町内にはない山の名前を町名として採用し、しかもひらがなにしたのかは明らかでないらしい。古参議員だった妙寺町の時代から議員を務めてきた人物に聞くと、当時の知事が、最終、町名でもめていた中に入って、「かつらぎ町」という案を提示したのだという。妙寺町でも笠田町でもない町名を付けることによって対立を沈めたのだそうだ。

佐藤春夫さんは未来の町名を知っていたのではない。偶然の一致というのはおもしろい。
妙楽寺というのは真言宗のお寺だった。このお寺を小学校に使うことによって笠田小学校は始まった。この妙楽寺の境内には、十五社明神という神社もあった。昔、お寺と神社はいっしょに存在した。日本の神様は、中国から入ってきた仏教と仲がよかった。世界遺産になった丹生津比売神社にも立派なお寺が併設されていた。しかし、天照大神をまつる神社にお寺があるのはいけないということで、明治初め廃仏棄釈という施策によって廃止されてしまった。十五社明神は、明治の終わり頃、宝来山神社に合祀されるまで続いたらしい。十五社明神には、白髭・八幡・天神・蔵王・丹生・高野・気比・熊野・牛頭天王・弁財天・恵美須・大黒・山神・淡島・大将軍の十五社が相殿に鎮座されていた。

今、残っているのは薬師堂である。境内は小学校に取り込まれたので小さくなったが、薬師堂と樟のある境内は薬師講の方々が管理している。笠田小学校は、なくなってしまった妙楽寺なしにはできなかった学校のようだ。
笠田小学校の子どもたちは、佐藤春夫さんの校歌を胸に染みこませ、樟に見守られながら育っていく。自分たちが大きくなって、学校を訪ねてきたとき、もし仮に古い校舎が新しくなったとしても、変わらぬ樟の姿があれば、思い出は鮮やかによみがえるだろう。

命を見守ってきた大きな楠。町の中にある一本の木。
参考文献:「かつらぎ町史」近代資料編、紀州語り部の旅─かつらぎ町、笠田小学校百年史


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

かつらぎ・発見伝

Posted by 東芝 弘明