「知的複眼思考法」に寄せて

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「知的複眼思考法」を読んでいる。苅谷剛彦さんの本だ。
この本を読んでいると、哲学のカテゴリー論が重要な役割を果たしていることがよく分かる。
カテゴリー論というのは次のようなものだ。
1 規定性は否定性。物事を規定するということは、否定するということ。規定性は否定性を意味する。
A=Bというのは、A=CやA=Dではないということになる。A=Bということが規定できるということは、AはCやDではないということになる。これが規定性は否定性だという意味である。
2 具体と普遍(抽象)。一つのリンゴというのは、個別的具体的なもの。しかし、リンゴには、リンゴである一般的な特質がそなわっている。AのリンゴはBのリンゴと非常に似通った類似性をもつ。つまり個別的なリンゴの中に普遍的(=一般的)なリンゴという概念が内包されている。
言い換えるとこうなる。具体的なものの中に普遍的なものが同時に存在する。普遍的なものは、具体的なものを通じてのみ存在する。個別的なリンゴから導き出される抽象的なリンゴ一般の概念(普遍的なリンゴ一般と同じ)ということだ。
これが、カテゴリー論の一端だ。これ以外に、個別と一般、偶然と必然、帰納と演繹などがある。
論理的な展開という点では、この具体と普遍の関係はきわめて重要である。われわれ人間は、この普遍的な概念なしに物事の本質を深くとらえることはできない。抽象的な概念は、一見すると具体的な事物から離れるように見えるが、本質に迫るための概念化、抽象化という場合がある。具体的なものの中にある普遍的な共通点を導き出し、普遍的な概念でくくることによって、人間の認識は、今まで見えなかった問題に光を当て、メスを入れることができるようになる。つまり、抽象的な概念を駆使して、物事の真実の深みに分け入っていく。
しかし、注意しなければならないのは、具体的な物事から導き出された普遍的(=一般的=抽象的)概念は、この具体的な存在から離れてしまう場合がある点だ。われわれはたえず、抽象的な概念の背景にその概念を導き出した具体的な物事を意識しておかないと、現実から概念が遊離して、誤った認識に陥る可能性がある。普遍的な概念は、具体的な物事と遊離しないのであれば、概念を活用した議論は、螺旋状に事物の本質に接近していく。しかし、この螺旋が、具体的な物事と遊離すれば、理論はらせん的な曲線を描かず直線に転化する。
われわれは、このことを十分に理解して、概念を活用しなければならない。
苅谷さんは、この本の中で概念の必要性と危険性の両面を分かりやすい言葉で展開している。それが概念レベルで考えるという表題以降の章だ。ここでの論理展開は、ぼくが、今日、このBlogで書いているように難しい表現では書かれていない。概念そのものを時には疑い、問い直すことの重要性も指摘されている。この指摘は鋭い。
苅谷さんの本のこの章を読み進めていくと、上記で展開したような哲学のカテゴリー論が鮮明によみがえってくる。
本から人々は多くの刺激を得る。刺激の受け方は人それぞれだ。
哲学のカテゴリー論を学んだことのない人は、苅谷さんのこの本の、この章を読んだとしても、哲学のカテゴリー論を頭に思い浮かべることはできない。100人の人間がいれば、100通りの本の読み方ができるのは、それぞれの人が蓄積したバックボーンの違いがあるからだ。
本との対話は、自分が蓄積してきたものの見方との対話でもある。
有意義な本に出会うと、自分の中から色々な思いがわき出してくる。
もう一つ、重要な視点がある。それは、物事をとらえるときには、その物事の生成と発展、消滅のプロセスを重視するということだ。
君が代・日の丸のことについて、Blogで何度か書いてきた。すべての物事に対しては、自由なとらえ方をしていいと思う。しかし、それぞれの問題の本質に迫りたいならば、物事の本質をつかむ方法論はある程度制限が出てくるだろう。
君が代と日の丸という存在も、日本の社会と歴史の中で形成されてきたものだ。したがって、これらの問題には、事物の起こりと発展の歴史がある。現在の社会の中に具体的に存在するすべての事物には、それぞれの生成・発展の歴史がある。この発展の具体的なプロセスを度外視した論理は、どうしても事実を踏まえない勝手な解釈にならざるをえない。
議論の中には、歴史的な形成過程をまったく度外視したような議論もある。自分の感情が出発になっている場合もある。
「君が代」も「日の丸」も、日本の社会の中で歴史的に形成されてきて、国歌・国旗となった。そこには存在してきた道理と理由がある。君が代と日の丸問題をとらえる際にも、この歴史的に形成されてきた「君が代」と「日の丸」を偏見なしに肯定的にとらえる必要がある。しかし、同時にこの歴史的な形成過程に対し、批判的にとらえる姿勢が必要だ。批判的という言葉は、そのものを頭から否定せよということではない。肯定的にとらえながら、同時にこの成立過程の因果関係に批判的な視点を添えて、生成過程を深くとらえ直すということだ。
すべての物事は、生成・発展・消滅の過程にある。「君が代」と「日の丸」も未来永劫存在するものではない。たとえば「君が代」の歴史を見ていくと、古今和歌集の歌だったものが、明治以降、天皇制をたたえる歌として、「わが君は」を「君が代は」に変えて出発した事実にぶつかる。絶対主義的天皇制の一つの精神的な支柱として用いられた歴史が見えてくる。
近代国家において、「天皇制の時代が未来永劫に続きますように」という意味で用いられた「君が代」が国民主権と恒久平和を原則とした日本国憲法下で矛盾なしに成り立つのかどうか。
ここに「君が代」問題の本質があるのではなかろうか。
物事の生成過程を見ないで、現在のさまざまな視点だけで論じるとその事物が具体的に果たしてきた役割が見えなくなる。自然も歴史的に形成されてきたものであることが、広く認識されている。もともと、宇宙の起こりには原子としては水素原子しか存在しなかった。Fe(鉄)もAu(金)も歴史的に生成されてきたものだ。
すべての事物は、生成・発展・消滅の過程の中にある。生成したときの多くの多方面への可能性が、さまざまな要因と絡み合って、一つの方向性をもって発展する。発展のプロセスを理解することは、内に静かに隠れている生成のメカニズムを明らかにすることへとつながっていく。物事を研究するときに、その物事の起こりと発展、消滅の過程を研究し、発展のメカニズムをとらえることが、物事の本質に接近する道なのだ。
議員活動の中でもカテゴリー論や生成・発展・消滅の過程をとらえる視点は、非常に重要になる。「知的複眼思考法」という本は、複眼的な思考を身につける上で重要な視点をあたえてくれる。
ただし、最も重要なのは、これらの本で書かれていることを実際に活用して、自分で研究し解明する役に立てることだ。実践的に活用しないと知的複眼思考は身につかない。
苅谷さんの本は、実践活動へのいざないもおこなっている。
この本に興味のある方はご一読ください。読んでも刺激を受かられない場合は、多くの本を読む必要があるかも知れません。多くの本を読み、何年かたってもう一度、苅谷さんの本を読み返せば、その時、この本は、温かいほほえみを返してくれるでしょう。

知的複眼思考法―誰でも持っている創造力のスイッチ 知的複眼思考法―誰でも持っている創造力のスイッチ
苅谷 剛彦 (2002/05)
講談社
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Posted by 東芝 弘明