仁坂知事の「乱にいて治を忘れず」を考える
党の旗開きの会議の最中に生活相談の依頼の電話が入り、会議の場を抜け出して相談者に会いに行った。
今年早々から相談事に忙しくなりそうな予感がする。
午後からは事務所で会議。
終わってから申し入れ文書を2通作成した。
総選挙の年。激動の上に激動が重なって行く年の幕開けだという感がする。
昨年、1年を象徴する感じは「変」だった。
今年は、この「変」を変革と変化の年にしなければならない。
さて。
仁坂知事が、「きのかわトークニュース」に「新春のごあいさつ『乱にいて治を忘れず』」という文章を書いていた。知事は「乱にいて治を忘れず」というのは中国の古い言葉だと書いている。
しかし、調べてみると「治にいて乱を忘れず」というのが、正しいようだ。
この言葉は、易経(えききょう)という本に出てくるらしい。「易経とは儒教の基本テキスト五経の筆頭に挙げられる経典」(ウキペディア)で、「治にいて乱を忘れず」とは
君子安而不忘危、存而不忘亡、治而不忘乱という文章の中にある。
日本語による訓読は、「君子、安けれども危うきを忘れず、存すれども亡を忘れず、治まれども乱を忘れず。(諸橋轍次による訓読)」となっている。「治まれども乱を忘れず」が有名になり戦国時代の大名が好んで使っていたともいわれている。「治にいて乱を忘れず」という言葉の意味は、「平和の世にも戦乱の時を忘れず、万が一に備えて準備を怠らないこと」となる。
(「乱にいて治を忘れず」というのは、「治にいて乱を忘れず」の間違いだということになる。しかし、知事の「乱にいて治を忘れず」という文章の内容が面白かったので、知事の語る言葉に耳をかたむけて、それに添ってものを考えてみたい。文章を書く場合は、調べて書いていただきたかったが、言葉の誤りについてはまったく問わないでおく。どこかの国の首相とは一線を画す人であってほしいとも考える。)
仁坂知事は、乱の様相の中で「とにかく現状を変えてしまえ、そうすれば今よりももっとましな社会ができるだろうと考えがちです」と書き、「改革には大変なエネルギーがいりますが、それは破壊に向けられるべきではなく、周到な戦略と見通しとそして実行し続ける持続的な気力がないといけません」と続けている。大事な観点が書かれていると思った。ただし、次の結論の部分には異論がある。
「こんな時にこそ、和歌山はしっかり『治』を確立して耐え抜くことが大事です。県としては財政規律を守りつつも、長期総合計画で描いた政策を着実に実行しなければなりません。次の発展に備えて幹線道路網などのインフラ作りも怠らず、産業の種も大いにまき、知恵を絞って医療、福祉や教育を守り、県民の気力を常に鼓舞し続けなければなりません」
この言葉自体に異を唱える訳ではない。しかし、ここで語っている「長期総合計画」や「財政規律を守りつつも」というものは、すでに具体的な内容をともなって実行されつつある。これらの中身が、知事の語っている内容とは相容れないものを含んでいる。「乱にいて治を忘れず」という大事なことを述べるのであれば、「乱」とは何か、「治」とは何かについて、深い分析が問われてくる。
「乱」につて、ぼくは次のように考える。
「乱」は、今回のアメリカ発の経済破たんによって引き起こされただけではない。まさに「乱」は、全世界的には30年に及ぶ新自由主義的な改革によって進められてきた全内容をさす。日本では小泉改革以降の改革そのものが国民生活を「乱」に追い込むものであった。
新自由主義的な改革は、社会保障制度の破壊と労働法制の破壊だった。経済的には規制緩和を基本にした金融自由化がその中心だった。
この30年に及ぶ「乱」が昨年、アメリカ発の経済破たんとして破たんした。それゆえに根はものすごく深い。和歌山県の「長期総合計画」と「財政規律を守りつつも」という内容である行政改革の計画は、まさに「乱」と同じ内容をもつ新自由主義的な改革に他ならない。
ぼくは100%否定の議論をしている訳ではない。「長期総合計画」には、注目すべき点もある。しかし、「長期総合計画」と「行政改革」の中心思想はやはり新自由主義だろう。具体的な中身としてもこの2つの計画は、福祉の破壊と後退に軸足を置いたもの、官から民への流れを強めるものであり、ここには多くの問題がある。
この2つの計画は、評価できる点はあったとしても、その本質は「治」ではなく「乱」の継続だといわなければならない。「乱」に「乱」を重ねることは許されない。
問われているのは、小泉改革の総点検、総批判であり、そこからの脱却だと思う。県の計画にこの視点はまだない。
福祉国家の再建と望めば安定して働ける社会の再構築、この2点こそ、本当の「治」の中心にすえなければならない。
「乱」に対する「治」は、「変革」という側面をもつ。この変革は、小泉改革に対する変革である。それは、「改革を止めるな」ではなく「改革を止めて日本社会を再建する」というものになる。言い替えれば、贋物の改革からほんまもんの改革への転換こそが求められているということだ。
日本は熱病のように、小泉改革を受け入れた。しかし、この改革の具体的な中身については、ほとんど証明なしに導入されたものだ。和歌山県出身の竹中平蔵氏は、国会で「それはすでに証明済み」だという答弁を繰り返していたが、証明済みだというだけでその中味については詳しく語らなかった。まさに証明抜きに金融自由化が推し進められ、規制緩和が推進された。
今こそ「乱にいて治を忘れず」という考え方で、証明抜きだった諸施策について総批判がおこなわれなければならない。そこから生まれてくる経済の緊急対策やほんまもんの改革は、ケインズ主義への復帰にはならない。社会進歩の流れに沿って資本主義社会を前進させる改革は、ケインズが考えていたものとは違う多くのものを生み出すようになるだろう。歴史は繰り返す、しかしそれは螺旋状にのぼるのだ。
1929年の世界恐慌は、その克服の過程の中で第2次世界大戦を引き起こしてしまった。経済的な困難の克服は、日本とドイツとイタリアというファシズムを生み出したが、今回の経済危機は、第3次世界大戦を生み出さないと思う。むしろ軍事大国としてのアメリカの凋落、ドルの信用の低下、世界の中心がアメリカから多極化への方向をもって動くように感じている。
人間は、歴史の教訓から多くのことを学んできた。第2次世界大戦は、戦後巨大な平和の流れを生み出してきた。アジアでは、ベトナム戦争以後、いくつかのジグザグはあったが、平和の流れが大きくなっている。
福祉国家の再建は、ヨーロッパ型の社会がひとつの参考になる。ルールなき資本主義からルールのある資本主義への転換、破壊ではなく建設的な改革が問われている。それこそが「乱にいて治を忘れず」ということになる。21世紀は、戦争のない世界への転換。平和共存が現実になるなかで資本主義の抱え込んでいる矛盾を克服し、次の社会への準備が実現していく世紀になる。そういう予感がする。破壊ではなく再建と建設という「治」が求められている。