小中一貫校について思うこと

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小中一貫校について話を聞く機会があった。
小中一貫校については、考えたいことがあるので書いてみよう。
ネットで小中一貫について調べてみると、6・3制の小学校、中学校の義務制の枠組みを小中一貫校にすることによって、弾力的なカリキュラム編成によって改変していこうという流れの中にあるものだった。1年生から4年生までを基礎、5年生から7年生までを充実、8年生から9年生を発展と表現しているところもあれば、前期(1年から4年)、中期(5年から7年)、後期(8年から9年)と区切って5年生から徐々に教科担任制に移行するというような取り組みを行っているところもある。
義務教育の期間を9年間にすることによって、6・3制を組み替えて、特別な9年生の義務制学校を作る──ここに小中一貫校の最大の狙いがある。
これは、小中連携とはまったく似て非なるものにならざるをえない。
戦後の日本の教育制度は、6・3・3・4という単線の教育制度を作ることによって、教育の機会均等と普通教育を受ける権利を保障し、その権利を貫くために保護者に子どもを学校に通わせる義務を負わせた。
そのことを保障している憲法の条文が第26条だ。

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。(憲法第26条)」


つまり、6・3・3・4制というのは、等しく教育を受ける権利を保障する制度として作られたものだ。
この教育制度を、いま、さまざまな形で差別化し複線化する動きを強めようとしている。これが日本ですすめられている教育改革だ。
2学期制の導入、自由学区制、教育バウチャー制度、特色ある学校づくり、小中一貫校、中高一貫校による学校の複線化、高校の学区制の撤廃、教職員への成果主義賃金の導入、学校評価制度──これらはすべて、いかにして教育の中にさらなる競争を組織するかという観点に貫かれている。
もちろん、もっと競争を、などと本質を明からさまに語るようなことはしない。
現在教育が抱えているさまざまな問題を解決するかのような言説をもって、改革は導入される。
複雑な教育の流れを作るために、活用されたのが教育特区だ。この教育特区という考え方自身が、教育の機会均等を破壊する役割を果たしてきた。それは、個々の取り組みの成果だけを見ていては見えないものだろう。
和歌山県下で、教育に巨大な影響を与えたのは、高校の学区制の撤廃と中高一貫校の創設だった。この2つの制度によって、高校受験をめぐって競争がより一層組織されるようになり、地元の中学校に通うはずだった子どもたちの中に、中学校受験を生み出し組織していったし、高校の校区の撤廃によって、広域通学をする生徒が激増する結果となった。
和歌山県下では、中高一貫校が創設されたことによって、中学校受験が始まり、多くの生徒が地元中学校に進学しないという傾向が生まれている。
この流れの中に中高一貫校が作られたらどういうことが起こるのか。
おそらく最も大きな影響を受けるのは、中高一貫校があり、小中一貫校があるような地域だろう。
一番大きな影響を受けるのは子どもたちと、子どもたちを抱える家族だ。子どもたちの前に、小中一貫校に行くのか、それとも小中一貫校に行くのかという選択肢ができる。地域による子育ては、進路の選択肢が増えれば増えるほど困難になる。
校区については、現在かなり柔軟に対応するように変化している。クラブ活動を行うことを理由にした校区外通学を認める方向が強まり、不登校問題やいじめ問題を解決するために校区外の学校を選ぶことも出来るようになっている。この方法を一概には否定しないが、しかし、この流れの最終目標は、自由学区制という名の校区撤廃だ。すでに和歌山県教育委員会は、自由学区制を選択してもいいという見解を打ちだしている。
教育委員会が、小中一貫校の魅力を強調し、発展への力を注げば注ぐほど、小中一貫校でない学校と内容上の差が生まれてくる。「充実した小中一貫校に行きたい」──こういう意識が保護者の中に生まれてくれば、自由学区制への道も開きやすくなる。自由学区制の導入によって学校間の格差を拡大し、人気のある学校とそうでない学校を作り出せば、学校の統廃合も行いやすくなる。
小中連携に取り組んできた先生方は、小学校の貧困の現れである専科の先生がほとんどいないという現状の問題点を解決するために、奮闘努力している。全国の取り組みを見ると本当に頭が下がる。
しかし、小学校に専科の先生をきちんと配置し、行き届いた教育内容を保障することをしないで、中学校の先生方に多大な負担をかけて、専科がない現状を埋めていくのには無理があるだろう。貧困な体制の中で、専科の教育の充実に最大限の努力を行ってきた先生方の苦労に報いる本当の道は、小学校に専科の先生を増やし、少人数学級を実現することではないだろうか。
子どもたちは、もっとゆっくり先生と話をする時間を求めている。一人一人の子どもたちの思いに心が配られ、成長を見届けてほしいというのが、子どもたちの願いではないだろうか。声をかけるのも悪いというような慌ただしさの中で、豊かな心の交流は保障されない。
世界第2の経済大国で、小学校にほとんど専科の先生がいないこと自体がおかしな現象だと思うのだが、いかがだろうか。
日本共産党25回党大会決議は日本の教育について、こう書いている。

教育――国の制度として少人数学級に踏み出すとともに、教育のすべての段階での教育費負担の軽減・無償化、とりわけ高校と大学の学費無償化をはかる。世界でも異常な競争主義と序列主義の教育を根本からあらため、学習指導要領の強制をはじめ教育内容への国家的統制をやめさせる。教育への国家的介入をすすめる憲法違反の改悪教育基本法を抜本的に改定し、日本国憲法と子どもの権利条約の原理に立脚し、一人ひとりの子どもたちの主権者としての人格の完成を目的とし、国民の教育権、教育の自由と自主性を擁護・発展させる新しい教育基本法策定への国民的合意の形成をはかる。


国連の子どもの権利委員会は、日本の教育について、2004年1月30日、次のような所見を明らかにした。

「教育制度の過度に競争的な性格が子どもの肉体的および精神的な健康に否定的な影響を及ぼし、かつ、子どもが最大限可能なまでに発達することを妨げていること。
 b) 高等教育への進学が過度に競争的であるため、公立学校の教育が、貧しい家庭の子どもには手の届かない私的な家庭教師や塾の学習によって、補われなければならいこと。」


中高一貫や小中一貫校の設置は、その直接の意図とは別に、この国連の子どもの権利委員会の指摘を改善するのではなく、さらにエスカレートさせるものにならざるをえない、ということを最後に書いておきたい。


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Posted by 東芝 弘明