新自由主義の狂気 2006年1月30日(月)

本の紹介

党大会の会場に設置されていた書籍コーナーで「『福死国家』に立ち向かう」という本を買ってきて、読み進めている。
この本の中に新自由主義についての規定がある。
新自由主義は、1970年代の後半、ケインズ主義の破綻にともなって登場してきたものであり、(1)財政危機の破綻の主要因は福祉国家にあるとし、(2)公的責任よりも市場原理の優位性を唱えている。
新自由主義の「新」の内容については、3つの角度から指摘している。
これを基本にして、自己流に書くと次のようなものになる。
1.古典的自由主義は、絶対王政や旧重商主義の打破を求めるものだったが、新自由主義は、先進国病の根源を賃金の大幅値上げと社会保障費の膨張に求め、戦後福祉国家を乗り越えようとする。
2.古典的自由主義は、国家が経済に介入するという仕組みがなかったので、自由放任だったが、新自由主義は、強い国家をバックに市場原理を福祉分野にまで浸透させようとする。
3.古典的自由主義は、自由な競争を実現することによって、古い経済体制を打破する役割を果たした。新自由主義は、独占段階の資本主義のもとで「自由競争」を唱える。しかし、独占段階の「自由競争」は幻想であり、より一層の資本の集中・集積を実現し、弱肉強食を極端に推し進める。
ぼくは以前、小泉構造改革について、ブログに次のように書いたことがある。

新自由主義は、自由主義経済という古典的な市場万能論の復活である。何が新しいのかといえば、資本主義の黎明期と資本主義の爛熟期の違いだろう。同じ自由主義でも、対応すべき部門は、驚くべき生産力と巨大な体制をもっている。しかし、時代的背景がいかに違おうとも、新自由主義は、資本主義を先祖返りさせる取り組みである。


ぼくはこの文章を書いて、新自由主義は資本主義の矛盾をむき出しにするという意味で先祖返りという言葉を使った。「先祖帰り」ではなく「先祖返り」とした点にも意味を込めたつもりだった。
今回は、古典的自由主義と新自由主義とのちがいを読み取っていただければうれしい。
独占段階にある資本主義社会で自由主義的な政策を推進すると、資本主義の矛盾が資本主義の黎明期とは比較にならない規模でむき出しになる。
先祖返りは、巨大な生産力のもとで実行に移されるので、単なる復古主義には終わらない。いわば螺旋階段を上るように、同じ位置に戻るかのように見えて高さが違ってくる。類似性と差異があるということだ。
独占段階の自由競争はあり得ないというのは、経団連という組織の存在を上げるだけでおおかたの説明になるだろう。小泉構造改革が進んでいっても、産官学の癒着、官僚の天下り、談合が改善されず温存されるのも、独占段階におけるなれ合いと癒着がなくならないのも、独占資本の経済的同盟=その現象形態としての経団連があるからである。
自由競争と自己責任は、国民の側、はっきり言えば支配される側に貫徹されるものであって、資本の側には、激しい競争とともに、それと平行してなれ合いが存在する。利権構造や癒着構造は、自由競争というスローガンのもとで温存され、拡大される。壊される癒着や利権は、単に経済構造の変化の中で主役のポストを降りる範囲に限定される。
日本では、明らかに貧富の差が拡大し、格差社会の実態がさまざまな指標で目に見える状況になっている。小泉総理は、「格差拡大は確認されていない」と答弁したが、この答弁を否定する事実は隠しようがない。
以下は赤旗記事↓↓
小泉さんこれでも格差拡大ないの?
新自由主義が目指すものには、展望がない。この路線は、自己責任を極端に求め、一握りの大金もちと大企業、圧倒的多数の貧乏人を作り出す。
地域間格差も拡大しつつある。
紀北沿線は、月に一度、電車が運休をストップする地域となった。JRは、和歌山線を細かく区切って採算性を問題にし、収益を追及している。コスト削減のもとで昼間の保守点検が実行に移され、保守点検にともなう運行の停止を実現してくれた。おかげさんで。
和歌山県は、さながら日本全体のオマケのような地位を与えられつつある。
新自由主義の狂気が、和歌山を丸ごと切り捨てようとしている。


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Posted by 東芝 弘明