授業参観とPTA総会 2006年4月29日(土)

出来事

午後1時から授業参観があったので妻と2人で笠田小学校に行った。今日は学校の校庭が臨時駐車場になっている。始まるギリギリの時間に教室に入った。2年生の娘の教室は、25人ぐらいの子どもで1クラスになっているので、ちょうどいいくらいの人数だ。
今年の1年生が35人しかなかったので、1クラスになり、先生の負担の多い状態になった。教員の加配もおこなわれて、TTでカバーしますというのが校長先生からの報告だった。それでも1年生は大変だ。
今日の授業参観は、算数だった。答えを言ってしまいたい子どもたちに対し、先生はていねいに数え棒をつかって子どもたちに数の概念を教えようとしていた。
今回の授業は2桁の数字から1桁の数字をひくというもので、たとえば56-3というような問題を出題して子どもたちが答えていくというものだった。
文章題から授業が始まり、みんなで問題を唱和してから、文章題の中から式を導き出すという授業だった。
数の概念については、「分かっているよ」という子どもたちに対し、ていねいに教えていく意味はあるなあと思って授業を見ていた。56-3ができても、56-8ということになると、途端に難しくなる。ステップを1段上がるときに、基本的な理解をしっかり作ることが次へのステップになるということだろう。56-8をきちんと理解して計算できるようになるには、10の固まりと10未満の1本1本の数字という概念が大事になると思われる。
100マス計算に見られるような反復練習と、考え理解を深めていく授業、この両方が大事なのだと思う。
文部科学省は、詰め込み教育批判から、大きく逆に揺れて、暗記や計算力などを軽視してしまった。また、自分で考える過程が大事だと言うことで、考えるプロセスだけ大事にして、人類の知識の到達点までたどり着かなくてもいいということになってしまった。その結果、石垣を積むように認識を積み上げ、発展させていくという教育課程がかなり打ち壊されてしまった。3割削減という方針は、どうも人間の認識の発展を培ってきた教育課程を壊してしまった感がする。
恐ろしいのは、文部科学省が、この詰め込み教育偏重からかじを切るときに、意図的に公教育の解体を考えていたのではなかろうかという疑念をぬぐえないところにある。
競争と格差をわざと持ち込む教育は、公教育の解体と私立教育へのシフト、極端な選択制の導入や学区制の撤廃などをつうじての競争激化によって作られてきた。
勉強ができないのも個性、自己責任と自己実現、予算の削減を通じて私立への魅力を高める、公立の学校内でも格差を作るための6年制の中高一貫教育の導入。
一握りのエリートの育成と愚直な国民の創造──このような発言をおこなっていた中央教育審議会の方々。極端に聞こえるが、教育は、これらの発言どおりの流れになっているような感じがする。
でも、どっこい、子どもと学校は、もっと豊かにしなやかに柔軟に対応できると思う。
学校だけでなく、家庭で、塾に行くのでもなく親と子で知的な刺激に満ちた時間の共有。いわゆる楽勉のすすめが大事だと思う。
戦後の民主的な教育は、子どもの発達に対する科学的認識や子どもの認識の発展についてのさまざまな蓄積をおこなってきた。それらの成果が生かされていくなら、豊かな教育は実現できるだろうと思う。
しかし、文部科学省が作った学習指導要領は、こういう教育の成果を見ないで学校の教科書から科学的な認識論とか発達学を打ち壊すようなことをおこなってきた。
科学的な認識論や発達学は、教育基本法と深く結びついてきたように思う。それらの蓄積に文部科学省の目が向かないのは、教育基本法を解体して、戦前の国家主義的な、修身的な教えをおこなわなければ危機は解決しないと思いこんでいるところにあるのではなかろうか。この認識に立つのは、戦後の民主的な教育研究の流れを評価しないということと不可分に結びつくように思う。
さて、娘は、45分の授業の間、一生懸命先生の話を聞いて元気よく手を挙げていた。なかなか集中力があるなとうれしくなった。
学級懇談会には妻が出席し、1時間明けておこなわれたPTAの総会には、ぼくが出席した。


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出来事TT

Posted by 東芝 弘明