人は何のために生きるのか。4話目が必要だった

雑感

人は何のために生きるのか。3話だけでは終わらないことをコメントに書き込んでくれたwaoさんが教えてくれた。4話目は現実の中での話を書こう。この話を書かないと話は終わらない。
ぼくが3日間にわたって書いたことは、恵まれた環境の中での話だった。家庭環境的に恵まれている生活基盤があった上でも、日本の場合は、人間の生きる目的さえ掴ませてくれないようなところがあることを書いたということだ。しかし、子どもが生きる現実は、実際にはもっと過酷であることが多い。経済的に豊かであっても目的が定まらない生き方になってしまうことも多いが、子どもによっては、生きる環境がマイナス要因に支配されているということも多い。貧困の拡大は、この状況を広げている。

ぼくの母親は教師だったが、僕が小学1年生のときに父が亡くなり、ひとり親の母もぼくが中学生2年にときにガンで入院した。母の手一つで育てられた兄弟3人は、子どもだけで生活していたが、経済的には長期入院していた母の給料で生きていた。

「政治と経済、社会と文化、歴史」の中で、そのことを具体的に捉えられるような生き方ができていたとすれば、自分の家庭が誰によって支えられていたのかを、ヒリヒリするような感覚で捉えていたに違いない。しかし、当時のぼくには、そのようなリアルな認識はなかった。母が入院しはじめた頃、剣道部にいたぼくに対して買ってくれた剣道の袴と道着は、木綿製のゴワゴワしたものだった。これがものすごく惨めで嫌だった。みんなとの違いは歴然としていた。どうして、こういう剣道着しか買ってもらえないのか。当時のぼくはそこまで考えが及ばなかった。

経済的な問題なんて考えたことはなかった。自分の置かれていた境遇について、思い始めたのは高校生になってからだった。しかし、それは社会問題とはまったく結びついていなかった。兄貴が家庭のお金を管理していた。母の給料からどれだけお金を受け取って、3人の兄弟(兄、ぼく、妹)の生活費としていたか、ぼくは全く知らなかった。理解していたのは、夕飯の予算は毎日1000円、自分の小遣いは月5000円というものだった。
自分のお金をアルバイトで増やすようなことは、何も考えていなかった。自分のいる環境の中で楽しく生きるようなことだけだった。高校2年生になって、5000円の小遣いは、お昼ご飯に消え、月の半ばからは朝飯なし、昼飯なし、夕ご飯だけというような生活が始まった。お金が底をついたときに、周りの同級生に100円借りたりし始めたが、一体誰にいくら借りたのか分からなくなって、そういうことも止めた。高校1年の時にそうならなかったのはどうしてなのか、それは思い出せない。
1日一食の生活が続くと、貧血状態になり、朝起きると天井がまわり、起立、礼、着席をするたびに床がぐるぐる回った。体育の時間はめまいの連続だった。幸いなことに同級生にぼくの兄貴の彼女がいた。彼女は、ぼくの状態を見かねてお弁当を作ってくれるようになって、欠食状態はかなり改善した。

自分の置かれている現実を把握することもないぼくは、「政治と経済、社会と文化、歴史」の中で、それを自覚して生きることができていなかった。学校の学びは、自分の現実を考える力にはなっていなかった。手に入れたホンダのダックス(単車)も新品は不可能だったので、誰かの中古を格安で譲ってもらったものだった。制服は中学の3年の終わりに新調したが、それ以後買うことはなく、くたびれてきてからは、兄貴の友人からもらったものを着ていた。丈の短い変な制服だった。卒業写真をとるときには、その服ではかっこ悪かったので、友だちの制服を借りて写真を撮った。

修学旅行が2年生のときにあったので、同級生と2人で当時できたばかりの美嶋荘にアルバイトに行った。そのときのバイト代が旅行の時の小遣いになった。同級生のKは、ぼくの家に住んでいたが、修学旅行には行かないと言い張っていた。今から考えたらお金がなかったのだ。そんなことにも、ぼくは思いが届かなかった。

人間には運命と宿命があるとwaoさんはコメントしてくれていた。ぼくは、「政治と経済、社会と文化、歴史」というものを自覚していなかったが為に、親のいない家での生活を満喫し、お金はないが、かなり自由に生きることを楽しんでいた。もちろん、子どもだけの生活に当然つきまとってくる自分たちのケアに割く時間はかなり多かった。掃除と洗濯と食事。2歳下の妹とは喧嘩ばかりしていたが、その原因はすべてケアに関わる役割分担だった。妹が自分の責任を果たさないことが、すごく忌々しかった。

家庭環境という経済的な問題を認識できていなかったぼくは、お金がなくても、お金がないという思いさえなかった。お金がなくてもお金が欲しいとも思っていなかった。それよりも、周りの友だちの中で楽しく遊んでいることが、何よりも楽しかった。「政治と経済、社会と文化、歴史」を自覚しなかったとしても、waoさんのいう遺伝、環境、偶然、意志に左右される運命に支配される。言い換えれば結局は「政治と経済と社会」に影響を受けて、与えられた環境という条件の中で、生きざるを得ないということだった。リアルに現実を把握できなかったぼくは、「観念的には幸福」だった。夢のような観念の世界で、片思い中の同級生のことを毎日考えて生きていた。将来の夢なんて自分の頭の中にはなく、こんな環境なのに大学に普通に進学するような漠然とした思いだけをもっていた。もっと具体的な現実に向き合っていたら、学ぶことの意味も、ガンで入院していた母によって支えられていた生活に対する認識も、自分が生きる方向性も全然違ったものになっていたと思われる。

宿命は背負っていなかった。飲んだくれの暴力親父が生きていたら、ぼくの人生には逃れられない宿命がまとわりついたに違いない。強烈な影響を与えてしまう父は、幸いにして、酒を浴びるように飲んで46歳で死んでしまった。小学校1年の6月のことだった。この人がいなくなり、子どもたちに圧力をかける存在が亡くなったあと残ったのは、自由にものを考える母の作った家庭だった。この母の庇護の下でぼくは自由に生きていた。そういう母だったから、自分が入院するときに、高校生の兄貴に家庭のことを全部任せるという超大胆な決断をした。運命はあったが宿命はまとわりつかなかったので、括弧付きの自由の中に、ぼくの中学生と高校生の時代があった。

子どもは、家庭環境を選べない。親のさまざまな状況は、自分を取り巻く客観的なものとしてまとわりつく。親が子どもに対して、虐待などの負荷をかけてくると、子どもは逃れるすべさえ知らないので、自分の置かれた環境の中で、不自由な苦しい生活を余儀なくされる。日本の教育の中で「政治と経済、社会と文化、歴史」を自覚させない教育は、そういう境遇に置かれた子どもを救わないし、自分の置かれた環境を具体的に自覚もさせない。
今の時代、自覚すれば助けてくれる手立てや道筋は、ぼくが高校の時代よりは豊かになっている。ヤングケアラーという言葉が生まれ、今はまだ「なんとかしないとね」という到達点でしかないが、対応しようという機運がある。
ぼくがヤングケアラーだった時代は、「大変やねえ」というだけだった。いやむしろ「子どもらだけで生活してえらい迷惑や」ということだった。社会的に認識できないものは、対応の手立てもない。子どもだけで生活している家庭があって、若者のたまり場になっていたことを、病室のベッドの母に伝えない社会であったことが、母にとっては幸いだったように思う。母は、子どもたちの生活を知らなかったので考えようがなかった。死の床にあって毎日警察官が訪問していたような家庭状況を知ったら、母はどんなに苦しんだだろうか。

過酷な環境で生きる子どもは増えている。貧困が広がるもと、あがらえない宿命の中で、暴力を振るわれながらも親を愛して生きている子どもがいる。貧困が生み出すスティグマのなか、惨めな思いを重ねている子どもがいる。そういう子どもを救うためにも、過酷だけれど「政治と経済、社会と文化、歴史」を自覚させる教育がいる。リアルな認識とともに温かいケアのある社会を作らなければならない。自分の置かれた境遇を「政治と経済、社会と文化、歴史」の中でとらえるだけでは、あまりにも現実は重すぎる。どんな境遇に置かれた子どもにも愛情のある社会の手が届くように。ケアを中心とした社会を作ることは、今に生きる政治家の仕事の一つだと思われる。運命と宿命に振り回され、未来を見失うことのない社会を作ることは、自己責任論の対極にある。人間の自立は自己責任によって成り立つのではない。マイナスの要因に縛り付けられている子どもたちを、温かいケアの環境の中において、自立できるようにすることこそ、問われている。

些細なことだが、女子トイレに生理用ナプキンを配備してもらうことも、この一翼を担うものになる。小さな一歩は、ほんとに小さいが、その一歩は次につながる。人はどう生きるべきかを自由に考えることのできる社会をめざしたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明