「政治と経済、社会と文化、歴史」と教育

「政治と経済、社会と文化、歴史」の中で生きるというのは、人間としての生きる前提をいっているだけの話だと思う。言い方を変えれば、人間は「政治と経済、社会と文化、歴史」とは無関係には生きられない。問題は、このことを感じながら、体験しながら成長するかどうかだろう。
日本の教育は、この点では失格に近い。政治と経済、社会と文化、歴史というのは、当然小学校の時代から学ぶ中に折り込まれている。折り込まれているのに小学生や中学生が、政治や経済のこと、社会のことを日常的に考えられていない感じ。普通に、当たり前のように子どもの成長に合わせて、政治や経済、社会について学んでいけば、小学校の時代から、当たり前のこととして、日本の政治に対し、子どもなりの意見がでてくる。そういうことにならないで、政治についてどう思うかと言われたら、きょとんとして、「そんなことは考えたことがない」みたいになってしまっていることが問題だ。
キャリア教育が重要だとか、職業体験の重要性が言われて、中学生になると授業にそういう体験が組み込まれているが、そういうことを授業として組み込まなければ、職業観とかキャリア教育にならないというところに、ヘンテコなところがある。いかに日常の教育が、「政治と経済、社会と文化、歴史」についても学んでいるのに、実は切り離されているところに問題がある。
ぼくは教育者ではないので、どうしてそんなことになっているのかという根本のところが分からない。しかし、ひとつ、こういうことはいえるだろう。
学校で学ぶ歴史が(もしくは経済が、もしくは政治が、もしくは社会が)、現実のものと結びついて教えられているかどうかということだろう。
基礎と応用ということではなくて、問われているのは部分と全体との関係だ。
この捉え違いは大きい。教育者の多くは、基礎基本の徹底の先に応用があると考えているのではないだろうか。小学生の頃の学びは基礎基本なので、学んだことと現実のこととの結びつきは、充分理解されていないし、中学校における憲法の学習も三権分立や議院内閣制、地方自治の学習も日本の歴史の学習も、現実との関係は切り結ばれてはいない。学習は基礎基本の先に応用があるのではなく、つまりはそのような段階論ではなく、具体的に学んでいることと全体との関係をきちんと伝え、この結びつきの中で、具体的に考えることが重要になる。そうしないと学んだことが具体的に生きないほど、この問題は重要だと思われる。
もちろん、部分的な学びだから全体との関係を明らかにするとまだ学んでいない課題やテーマが欠けている問題として浮上してくる。しかし、それは次の学びにつながる重要な視点や問題意識になる。
個別の教えの具体的な内容が、現実の全体的なものとの関係で、どのような位置にあるのかということが絶えず教える側の教員やテキストの中で追求されていなければ、部分と全体との結びつきは切れてしまう。日本の教育は、結局連関している問題が、切り離され、断裂していることに多くの問題を持っているのではないだろうか。
子どもたちの学びが、たえず自分の身の回りにある現実と結びつく中で学びを問い直し、反芻するものであれば、学んだ知識は生きた現実を読み解く力をもつようになる。もちろん、そのことが絶えず意識されて教えられるようになれば、子どもたちは、実に生き生きと「政治と経済、社会と文化、歴史」の中で生きるようになる。
どう生きるかというのは、「政治と経済、社会と文化、歴史」の中で自分の生き方を後天的に見定めていくこと、「政治と経済、社会と文化、歴史」と自分との関係の中で、自分が探究できる具体的な分野を獲得していくことが、「どう生きるか」ということに直結していく。いわば学校は、本来、人間が「政治と経済、社会と文化、歴史」の中でどう生きていくべきかを主体的につかみ取らせるために存在している。ここから道を踏み外した教育というのは、教育ではないということだろう。
多くの中学生は、なかなか、自分の中にまとまった「政治と経済、社会と文化、歴史」に対する認識が培われていない。「中学生なのでそういうことをまだ十分考えられないよね」ということが、ごく当たり前のこととして存在していると思う。
それは、おそらく国際標準ではない。こんな教育しか実現していない日本は、国際水準から大きく立ち後れているということだろう。
「政治と経済、社会と文化、歴史」の中で生きているのだから、このことを自覚して学ぶということは、自分の人生を主体的に生きるということと繋がっている。自分が自分の人生の主人公だと自覚するためには、教育内容の上記に描いたような捉え直しとともに、子どもの権利条約を基本に据えた教育活動や学校の運営のあり方の民主的な転換が必要になる。
このことに関わる面白い文章に出会った。この文章は森岡毅氏の『誰もが人を動かせる』のP97にある。引用してみよう。
どうすれば日本文化出身者がもっとグローバル環境でリーダーシップを発揮できるようになるのか?と多くの企業が悩んでいます(大半はもう諦めています)。
第二次大戦後、日本人が世界中で仕事をし始めてとっくに半世紀以上も経つのに、真の意味でのグローバル企業のトップ層まで勝ち抜いた日本人マネジメントがほとんど皆無であることからも、その問題の深刻さは想像できるでしょう。
考えてみれば、この国は病的なシステムを未だに改革もせず昔から固守しているから当然です。
幼少期から”型”にハメて、自分の欲を抑制することを反復学習させて、大人になっても同調圧力をかけて欲求に素直に行動する人を叩く。前近代的な〝村の共同体意識〟から、突出する成功者には称賛よりも妬みやっかみの非難、出る杭は打たれてほしいわけです。まるで日本はジェラシッ子クパークです。そんな国からは、突出した才能を持つ異能者は逃げていきますし、強いリーダーも確率的に生まれるわけがないですよね。
強欲なカルロス・ゴーン氏は日産自動車の社長になれたけど、日本人の誰ならGEやアマゾンのトップになれるだろうか?という話です。
森岡毅氏が書くように「幼少期から”型”にハメて、自分の欲を抑制することを反復学習させて、大人になっても同調圧力をかけて欲求に素直に行動する人を叩く。前近代的な〝村の共同体意識〟から、突出する成功者には称賛よりも妬みやっかみの非難、出る杭は打たれてほしいわけです」という仕組みを学校教育から取り除いて、子どもたちの権利を保障し、意見表明権を認めるだけでなく、実際に学校運営や子どもたちの政治参加を子どもの時代から実現し、子どもの声を生かして政治を変えるように日本が変わることが大事だと思われる。デンマークではこの仕組みが実現している。このような仕組みが実現すれば、教育を通じて、子どもが「政治と経済、社会と文化、歴史」の中で生きるように変化する。
さらにもう一つ重要なのは、日本社会が残業のない社会、8時間働けば普通に暮らせる社会に転換すれば、家庭生活にも地域にも余裕ができ、人間の自由な時間が拡大する。そうなれば、子どもが自分のことを、自分の人生を自由に生きる時間も拡大する。「政治と経済、社会と文化、歴史」の中で自分はどう生きるべきかを考えられるようになれば、日本社会は大きく変化するだろう。
ぼくは、日本共産党に入党するプロセスの中で、ようやく政治や社会の問題を考えるようになった。
それまでは、高校時代にロッキード事件が発生していたが、誰が総理大臣なのかも十分に知らず、ロッキード事件のなんたるかも理解せず、1970年代に入ったときの記憶では万国博覧会のようなものしかなく、政治や社会の問題なんて考えたこともない学生だった。ぼくと同じような感覚で中学、高校時代を送っていた10代は多かったのだと思う。
勉強は大学受験のために存在していたし、確かに充分な自覚もなく生きていたぼくは、まともに勉強もしなかったし、本当の重圧も感じてはいなかった。ただ空気の重さだけは感じ取っていた。政治と経済、社会と文化、歴史の中で生きているにもかかわらず、そのことを自覚しないで生きる10代とは一体なんなのか。
ぼくたちの年代の10代は1970年代はじめから後半まで。高校を卒業したときが1978年だった。この時代と今の時代、学校教育は基本的には今も変わっていない。生きる人間の道を感じ取らせない日本の教育は、もういい加減、根本的に変わるべきだろう。
教育の変化は、主体的に生きる人間を育て政治を根本的に変革するものになる。この変化は人間の幸福につながる。












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