文章は勝手に生まれる

雑感

午前中は議会だよりの入稿の打ち合わせ。この会議も重要な会議になりつつある。
午後は、議会運営委員会の会議だった。基本条例の見直し作業が、完全に終了した。次の段階は全員協議会での議論だ。それが終了したら本会議に議案を上程する。一年かかった条例の全面的な見直しは、一応一区切りがつく。

栗山町議会の歴史を簡単にまとめた文書を読むと、変化は反問権の導入から始まったとあった。議会と当局の双方向のやり取りから改革が始まったというのは、新しい話だったが、ある意味で納得のいくものでもあった。かつらぎ町も詳細説明という名の反問権が導入される。これはいいことだと思われる。この反問権が活用されるようになると、近い将来、質疑3回という回数制限の問題点が浮き彫りになると思われる。栗山町議会では、本会議上での質疑3回という制限が取り除かれている。委員会には3回という制限がはじめからない。栗山町の変化の経緯を知りたい。

文章を書くことは、ある種、中毒性があるかも知れないと思い始めている。作家はよく、自分のつくったキャラクターが勝手に動くという。それはおそらく、文章が筆記用具と紙(パソコンの場合はキーボード=筆記用具、画面=紙)との間で紡ぎ出されるもの。考えていなくても、紙を見て文章を書いていくと、ある種、必然的に文は生まれるものだからだろう。ぼくの場合、ペンで書くと書くと、最近字がぐちゃぐちゃになる。出てくる文章の速さが、ペンで字を書く速さを上回りはじめている。これがぐちゃぐちゃになる原因だろう。キーボードで文章を書く方が、手書きよりも早い。

「この文章、誰が書いているって?」
「ぼくが書いているけど、厳密にいうとぼくは書いていませんよ」
「それは、こういうことかい?書き始めると勝手に文章が生まれてしまうんやね」
「そうそう、それって当たり前のことやん。何をかしこまって言ってるんや」
「おそらく一方には、頭で文章を書いている人がいます。この形で文章を書いている人は、文章を書くのに時間がかかります」
「それで」
「もう一方には、目とキーボード、もしくはペンと紙で、勝手に文章を生みだしている人がいます」
「何で2つに分かれるんや」
「答えは簡単。文章を大量に書く人は、みんな後者になる」
「文章が勝手に生まれるようになりたければ、大量に文章を書く必要があるということかい?」
「そうそう、そういうこと」
「うん、この問題の答えは出たね」

「一般質問には構想はいらない」
「うん。構想は必要ないということやね」
「そう。それが正しい」
「調査研究の中で、論理の組み立ては潜在意識下でできあがる」
「そういうことだよ。書くときは、構想なんて考えないで書いているんだよ」

作家がいう「キャラクターが勝手に動き出す」というのは、ぼくが感じている「文章は勝手に書ける」ということの延長線上にある。文章の生み出す必然性によって、文章はチェーンのように繋がっていく。
「そうだよ、人間の脳はそういう風にできているんだよ」


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雑感

Posted by 東芝 弘明