藤井幹雄さんの告別式

出来事

藤井幹雄さんの告別式の20分前に着くと、昨日と同じように橋本市産業文化会館のアザレア駐車場まで案内された。やはりたくさんの人が参列していた。藤井幹雄さんの生き方が現れているような弔問客の多さだった。
弁護士会の方の弔辞があり、最後に息子さんの親族を代表してのあいさつが行われた。泣かないであいさつする姿を見て、すごいな、気丈だなと思った。藤井幹雄さんは、そばから見ていただけだったが、家族思いの優しいお父さんだったと思う。聖心幼稚園の頃から同じように保護者だった。藤井さんも保護者会長をされていた。ぼくは、藤井さんの何代かあとの保護者会長だった。

秋祭りのお稚児さん行列のとき、娘を連れて歩いていると、ギャラリーの中に藤井さんがいた。「今日は東芝さんの娘さんを見に来た」と言ってくれたことが印象に残った。

秋祭りで神輿を一緒に担いだこともあった。宝来山神社への道中、いろいろなことを話しをしたことも懐かしい。
よく合うようになったのは、総合型地域スポーツクラブの立ち上げを中阪君や山下君と一緒に立ち上げてからのことだった。藤井さんは、設立されたスポーツクラブである「憩楽クラブ」の会長をつとめ、秋に行われ始めた10キロマラソン大会「紀の川万葉の里マラソン」でも中心的な役割を担われた。

野党共闘の流れが全国で強まる中、藤井さんは立憲民主党の候補者として活動を始めると、日本共産党との共闘という形が次第にできて、一緒に活動することがいろいろな形でできていった。このときの関係についても印象深いことがいろいろあった。お父さんである藤井静雄さんとも親しくさせていただいた。この方は、懐の深い楽しい人だった。
憲法9条を守り平和を守るという点で、藤井さんは和歌山市で9条ネットの中心となって精力的に活動してきた歴史がある。その根底には、弁護士として活動を始めた最初の地であった沖縄への思いと重なっている。

ぼくは、藤井静雄さんの通夜の席でのあいさつを忘れない。車の中で電話がかかってきて、心肺停止だという知らせを聞いて、飛行機で沖縄に行き、宮古島にさらに飛行機で移動した話を忘れない。
葬儀や通夜の席で、自分の気持ちをまっすぐに表したあいさつは、過去にもいくつかあった。それらはどれも印象深く記憶に残っている。中には泣き崩れるのを必死で抑えながら、言葉をつまらせ、天井を見上げた人もいたし、話し言葉でやさしく弔問客にお礼を言い、先だった妻の思い出を語った人もいた。

最後に、藤井さんにお別れをするために花を一輪もって、人のあとに並んだ。棺の中に花がたくさん添えられ、遺体の上に服を着せるように背広が並べられていた。ぼくは、お顔に近いところに花を置いて、少しお顔に触れさせてもらった。「生き返ったらいいのに」と思って触れたが、冷たい感触がそれを拒んでいた。

日差しがよく当たった日だったが、風は冷たかった。親族を乗せたマイクロバスが3台、人々が乗り込むのをまった後に、棺を乗せた車がクラクションを鳴らした。
ぼくの少し前で深々と頭を下げて長い間、動かなかった男性がいた。惜別という言葉が胸に迫ってきた。


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出来事

Posted by 東芝 弘明