昨日の続き

雑感

昨日、「神は細部に宿る」という言葉を引いて書いた。近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエの言葉だという説がある。でもそうは言い切れないようだ。アインシュタインやニーチェも使ったという指摘もある。
言葉の意味は「細部(ディテール)へのこだわりが作品の本質を決める」というもので、建築界でこの言葉は有名らしい。この言葉に対しては、最初の意味から少し転じて「細部にことの本質が現れる」と捉える向きもある。昨日、この言葉を思い出したときも「細部にことの本質が現れる」という意味が浮かんでいた。

ミース・ファン・デル・ローエはドイツ人だったので「神は細部に宿る」というときの神は、一神教の絶対的な神という意味だろう。日本の八百万の神(やおよろずのかみ)ではない。日本の神に置き換えるなら「神々は細部に宿る」ということになる。宿っていた神は疫病神かと書いたのは、細部には色々な神が宿るという日本的な意味があった。

誰が語りはじめた言葉かも定かではないようなので、ぼくとしては「神々は細部に宿る」という表現を使いたい。一体、どんな神が宿っているのか考えると面白い。
唯物論の哲学に「本質は現象する」という言葉がある。事物に備わっている本質というものは、抽象的に導き出された「概念」ではなく、本質は個別的な事物と不可分なものであり、個別的なものを通じて存在しているのが「本質」であり、本質には物質的な根源があるという意味だ。本質には物質的な根源がある。物質を離れた本質はないという、この本質論のもつ意味は大きい。

現象から離れた概念が基礎になって、新しい概念が生まれることがある。宗教の中には、そのようにして生み出された概念が基本理念だったりするケースがある。その概念が宇宙の真理を表すものであり、その概念によって全世界を説明するということもある。人間は、抽象的思考からさらに新しい概念を生み出すことができる。しかし、それらのものが物質的な基礎をもっているのかどうかという点が重要になる。そういうことを問題にしない概念は、それこそ宙に浮いたものであり世界や社会を表すものにはならない。

事業の細部のなかには、細部の問題だが、ことの本質を言い表している問題が潜んでいることがある。
外国人観光客を誘致するために、関空からヘリコプターを使って天野に来て、丹生都比売神社で特別参拝と野点を行い、天野の星空を見て天野に泊まり、翌日には高野山観光を行う。そのために国費550万円、町費220万円、合計770万円を使って8人の領事館の人もしくはインフルエンサーを招いてモニター旅行を実施し、それを新しい観光コンテンツをつくる起爆剤にする。
今回の事業の概要はこういうものだった。この事業計画を聞いたときに、この事業は町民の感覚からかけ離れたものであり、同時に仮にこの事業が行われたとしても、次の観光コンテンツが立ち上がってくるとは思いがたいものだった。「わずか8人おもてなしを行っておしまい」「770万円はほんともったいない」──ぼくはそう感じ、そういう姿勢でこの議案に向き合った。
質疑の前の日、事前のヒアリングをしていると、当局の説明はずれていった。主要施策の説明では、このモニターツアーをそのまま次の事業として生かしコンテンツを作るかのように書いていた。
このプランのまま新しいコンテンツはできないだろうというと指摘すると、
「いやそうではなくて、かつらぎ町に観光客を呼び込むための新しいコンテンツをつくるんです」
こうなった。実際の本会議でも町長の答弁は、主要施策の説明からはかなり離れ、主要施策の説明とは違っていた。事業の基本的な把握が、当局の中で出発においてずれていた。神々が細部に宿っていた。
町長の説明を聞いた多くの議員は議案に賛成した。一人一人の議員がどう考えていたのかは分からないが、賛成討論が2本出た。議員の積極的賛成が討論の数に表れたのだろうか。

議案に反対したのは2人の議員。今回、事業実施ができず、町が支払わなければならなくなった金額は105万円となった。議員のチェック機能とは何なのか。変な決着になったが、議員がこの事業を見つめ、改めて考えることが問われているのではないだろうか。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明