「はだしのゲン」に寄せて

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広島、長崎への原爆。
どれだけの人々の人生が、この2発の爆弾で破壊されたのだろうか。
「はだしのゲン」は、原爆を受けても力強く生き抜いた男の子ゲンを中心に描かれていた。2日連続で放映されたこの作品を小学校3年生の娘は、泣きながら見ていた。
衝撃は大きかったのだと思う。
なぜ、日本はあのような戦争をおこなったのか。
なぜ、広島と長崎に原爆が投下されたのか。
アメリカはどうして核兵器を作ったのか。
なぜ日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏しなかったのか。
食料が無くなると人間はどう変わるのか。
極限の状況下でほんとうに人々は助け合うのか。
人々は、原子爆弾の惨害からどのようにして立ち上がったのか。
原爆投下は、人間とは何か、戦争とは何かを根源的に突きつけてくる。
広島、長崎への原子爆弾と真っ直ぐに向き合い、根源的に突き上げてくる多くの問いの答えを探すことが、人として生きるうえでものすごく大事ではないだろうか。
日本とアメリカが戦争をしたことを知らない若者がいるとか、日本が中国大陸に侵略をした事実を知らない若者がいるとかいう話を聞く。
これは、日本人として欠くことのできない学習を受けていないと言えるのではないだろうか。
受験勉強でもっとも危険だと思うのは、社会の出来事に関心をはらわないという傾向である。学ぶという行為は、人間とは何か、社会とは何かを学び、社会の一員として具体的にものを考え、行動するということだろう。そういうことにまったく関心が向かない学び方というのは、学問によって人間を作るという道を大きく踏み外している。
ボイジャーの宇宙探査の目的を語った話をポッドキャストで聞いたことがある。最大の目的は、地球人とは何か。人類はどのようにして誕生したのか、地球はどのようにして誕生し発展したのかというところにある。宇宙探査は、壮大な自分探しの旅だというのだ。
最先端の宇宙科学は、人類の発展にしっかりと奉仕している。最先端の話には、ヒューマニズムが溢れている。
哲学者の真下信一さんは、学問をヒューマニズムという木に伸びる枝だと表現したことがある。科学は、「科」という言葉にあるように細分化されていく。真下さんは、細分化し進んでいく科学が、ヒューマニズムという木の幹を忘れてしまうと、悪魔とでも手を結ぶ(=知性は誰とでも寝る)という警告を発した。
原爆の研究をおこなったのも科学者であるし、人体実験をおこなったのも医学者だった。知性は誰とでも寝る。時には悪魔とも。
科学研究の中には、悪魔に奉仕した研究があり、国家が巨大な財政力でこれを支えているのも現実だ。経済学の世界になると巨大な経済力を持った勢力に奉仕した分野もある。
この現実を忘れることはできない。
真下さんは、哲学の意義についてこう語っていた。
哲学は、「科」の学を超えて全体をめざす。科学の上に立つ科学、科学の発展によって哲学も発展するが、哲学はヒューマニズムに根ざした科学を統合する全体の学問である。
知性だけでは、悪魔に奉仕することがある。人間に必要なのは理性と知性の結合、つまり理知だ。
真下さんのいうヒューマニズムは、もちろん人間至上主義ではない。自然の一部としての人間、動物としての人間という自然科学の成果の上に立ったものだ。
日本人の歴史を語るときに第2次世界大戦とは何か、原爆投下とは何かということをぬきにはできない。私たちが戦後手にした平和は、どのようなプロセスをへて勝ち取られたのか。このことを知らないまま大人になるというのは、ものすごく大事なものを見ない人間をつくることになるのではないだろうか。
勉強は、競争を勝ち抜くための手段ではなく、人間を育てる上で、欠くことのできない行為なのだと思う。人類の歴史が培ってきた、豊かなヒューマニズムに根ざした、人類に奉仕する学問、これを学ぶのが勉強なのだと思う。
いつの時代でも、学ぶという行為には、次の時代へのバトンタッチという意味が含まれている。現代の大きな難問を解決するのは、次の世代なのかも知れない。人間が培ってきた自由と民主主義の思想、人類の幸福に奉仕する学問を受け継いでもらうことが、学問の中心に位置づいていなければならない。
心優しい子ども、思いやりをもった子ども、強い精神をもった子ども等々は、学問の中から学び取っていくべきものだ。学問にヒューマニズムの精神が含まれず、道徳の時間にヒューマニズムを学ぶというのは、かなりゆがんでいる。具体的な内容をもつ学問そのものが、ヒューマニズムと不可分一体でなければ、豊かな精神をもった子どもは育たない。
「勉強ができなくても心の優しい子どもになってほしい」
こういう願いをもっている人も多いだろう。しかし、勉強を続けることが、心優しい子供を育てることに結びつかない現在の学校教育のあり方にこそ、今日の学校教育の歪みがある。
敵対的な競争が、勉強からヒューマニズムを削ぎ落としているのだとすれば、それは恐ろしい。競争教育の現実は、悪魔に奉仕しかねない人間を作り出しているのかも知れない。
小学校の時代は、学校の勉強を通じてヒューマニズムを学ぶものになっているように感じる。しかし、受験競争が強まるにしたがって、知識獲得が至上命令になって、学問の目的が、大学合格というものに置きかえられていく。
勉強の意味が、将来の幸福という視点で、しかも非常に抽象的にしか語られなくなっている。これは悲しい。学問の意味、喜び、豊かさを自由自在に語るようにならないと、削ぎ落とされたヒューマニズムはよみがえらない。
さて。最初の話に戻してみよう。
原爆投下の歴史を学ぶこと。これは、歴史教育の原点に明かりを灯し、同時に21世紀の未来にも光をあてる大きなものになるように思う。
娘が「はだしのゲン」から感じ取ったことは、学ぶとは何かということを感じ取った瞬間の一つだった。この芽を育てることが豊かな学びへの新しい一歩となる。
ぼくはそう信じる。


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Posted by 東芝 弘明