『読書力』と『話し上手 聞き上手』を読んだ

雑感

読書についてのコメントに触発されたので齊籐孝さんの『読書力』(岩波新書)と『話し上手 聞き上手』(ちくまプリマー新書)の2冊を読み返した。
『読書力』の1ページ目に「読書はしてもしなくてもいいものではなく、ぜひとも習慣化すべき『技』だと頑固に考えている」とあって、わが意を得たりと思った。
文庫本100冊、新書本50冊を齊籐さんはすすめている。巻末には文庫本100冊のお薦めリストも載せている。体験と読書との関係について書かれているカ所も気に入った。

自分の体験や経験を絶対の根拠としたがる傾向が、読書嫌いの人には時々見受けられる。こうした自己の体験至上主義は、狭い了見を生む。
 経験していないことでも私たちは力にすることができる。
 自分の中に微(わず)かにでも共通した経験があれば、想像力の力を借りて、より大きな経験世界へ自分を潜らせることができる。自分の狭い世界に閉じこもって意固地になったり、自分の不幸に心をすべて奪われたりする、そうした狭さを打ち砕く強さを読書は持っている。

人間が体験できること何てたかが知れている。人間には社会的にも歴史的にも制約がある。私たちのような戦後生まれは、第二次世界大戦を経験していないし原爆も経験していない。しかし、歴史から多くのことを学ばなければ、人間は同じような過ちを繰り返す可能性がある。歴史的な事柄から導き出せる教訓はたくさんあるが、体験していない現在の人間は、この大事な教訓をいとも簡単に歪めることもできる。
戦争を知らない世代だからこそ、私たちは読書を通じて人間の犠牲の上に立って生まれてきた価値ある教訓を学ばなければならない。体験至上主義でいえば、歴史から学べることはなくなってしまう。
「経験していないことでも私たちは力にすることができる。」──齊籐さんのこの言葉を歴史から何を学ぶかという問題にもきちんと置いておきたい。
12月の質問で、ぼくは町長に、「戦争を知らない世代である町長や私たちの世代だからこそ、歴史から何を学ぶかが問われている」と訴えた。
歴史の教訓を風化させてはならない。風化させないためには、読書が絶対的に必要だ。

体験至上主義の問題には、もう一つ付け加えておきたい。同じ体験をしても、その体験から何を汲み尽くすのか。ここに読書力が関わってくると思っている。同じ事件に遭遇した人でも感じ方は各人様々。どれだけ深く多くのことを経験から学べるかどうかは、それまでの蓄積に関わっている。読書をたくさんして、専門的な知識も身につけている人は、同じ体験からより多くのことを学ぶ。この差はものすごく大きい。これは、頭の善し悪しではない。体験が自分の蓄積と反応する。

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Posted by 東芝 弘明