臓器移植について
臓器移植について、意見を求められたので書いておきます。
以下、書くことについては、最近おこなわれた臓器移植についてのコメントではありません。具体的な事例についてコメントするものではないということをお断りしておきます。これらの問題は、きわめてデリケートな問題であり、事情を知らない人間が、コメントをするような問題ではないと思っています。
日本の法律では、本人の意思が確認されない場合でも、家族が臓器移植の意志を示せば、臓器を提供できるようになりました。臓器を提供できるケースは、脳死判定によることになっています。法律が施行されたのは1997年です。本人の意思が不明な場合でも、家族の同意があれば臓器を提供できるようになったのは2010年7月です。この改正によって15歳未満の子どもの臓器提供が実現しました。また2009年の改正では、優先的に親族に臓器を提供できるようになりました。
臓器を提供するかどうかの基本は、本人の意思によります。本人が臓器移植をおこなう意思を示すために臓器提供意思表示カードに記入し携帯する、免許証や健康保険証にシールを貼る、インターネットの登録サイトに登録するなどいろいろな方法があります。しかし、その人が脳死になった以後、家族の方々が本人の意思があるにも関わらず臓器の提供を拒否すれば、臓器提供はなされません。
臓器移植法案は、国会議員による法案提出から始まりました。この法律が国会で審議されたときに、かなり国会の審議は錯綜しました。まず問題になったのは脳死が人の死かどうかということです。また、大人よりも小さい子どもの脳死判定は難しいということも議論になりました。脳死は人の死という点については、現在もなお国民的な合意には至っていないという状況にあります。
国会の審議では、A案からE案まで5案の修正案が出されました。日本共産党以外の政党は、党議拘束を外して採決に臨みましたが、日本共産党は最終的な採決には棄権という態度を取りました。
こういう態度を取ったのは、脳死や臓器移植について国民的な合意が形成されていなかったからです。
脳死といっても、さまざまな状態があります。脳死状態になっても一定の期間、人工呼吸器によって臓器が正常に働いている状態のケースもあれば、脳死から心停止までかなり急速に進むケースもあります。脳死状態という判定もかなり複雑なケースがあり、判定自体が難しいようです。脳死状態になっても長期にわたって生き続けた例(2年生きた例や10年以上生きた例があるようです)が報告されています。こういうケースの場合は、脳死=人の死というのはなかなか受け入れがたいと思われます。
また、現在の脳科学の水準でいえば、脳の機能の解明が十分ではないので、「脳死とされる状態においても脳としての機能が恒久的に消失した状態にあるということを完全に証明することが出来」(ウキペディアからの引用)ないという事情もあります。
脳死判定は、臓器を提供する場合にのみおこなわれます。それ以外のケースでの脳死判定は認められていません。
「現在の日本において法的に脳死と認められるのは、臓器提供のために法的脳死判定を行った場合のみに限られ、臨床的に脳死状態とされても、それは法的には脳死とは見なされない。よって厳密には臨床的脳死という状態は法的には人の生死に関して意味がない。」(ウキペディア)となっています。
つまり、脳死状態にあるからといって、尊厳死は許されないことになります。脳死を判定できるケースはあくまでも臓器提供を前提としたケースに限るというのが、日本の法律です。
こういう関係を踏まえて、臓器移植について考えたいと思います。
ここからは、ぼくの個人的な感想です。
ぼく自身は、ある時期、真剣に臓器提供を考えたことがあります。役場にあった臓器提供意思表示カードを財布に入れていたことがあります。しかし、ぼくが亡くなった場合、臓器提供するためには、脳死判定以後、6時間後にもう一度脳死判定をおこなう必要があります。それからあとで臓器提供のための摘出手術がおこなわれます。摘出手術にも一定の時間が必要になるでしょう。交通事故や蜘蛛膜下出血などで突然亡くなるケースの場合、悲しみにうちひしがれている家族が、長時間臓器提供のためにまたされることになります。こういう状況に家族が耐えることができるのかどうかを考えてしまいます。先ほど書いたように脳死といっても、体温もあり心臓も正常に動いているような状態になったときに、本人に臓器提供の意思があると分かったとしても、家族はなかなか決断できないのではないでしょうか。
自分一人の判断で臓器提供の意志を示している場合と、普段から家族の間で臓器提供する意思があることを話しておくのとでは、家族の受け止めは随分違うと思います。
ただ、健康な状態の時に、「もし自分が突然亡くなったら臓器を提供したい」と話をすることはなかなか難しいことだと思います。普通家族は、お互いの健康を望むので、こういう話題を語ること自体、難しいのではないでしょうか。
病におかされて、病床にあるときに、もしくは意識があるときに家族に臓器提供の意思があることを伝えることができれば、家族の受け止めは違うかも知れません。本人に明確な臓器提供の意思があるにもかかわらず、家族がそのことを知らないで、臨終に立ち会い、臓器提供の意思があると伝えられて、家族がそれを拒否するというケースも、何とも言えない問題を残すと思われます。本人の意思を受け入れなかった家族は、かなり苦しむかも知れません。
本人が死ぬことを覚悟して、家族に臓器提供の話をし、家族が事前にそれを受け入れるというケースの場合、臓器提供がスムーズに行われるかも知れません。本人も家族も覚悟を決めて、死後の対応を考えるということはあるかも知れません。
小さい子どもの場合は、親族の判断によって臓器提供がおこなわれます。自分たちの子どもを何らかの形で生かせてあげたいという思いが、臓器提供につながるのでしょうか。実際提供する立場にならないとその心情は分からないと思われます。
いずれにしても、臓器提供、臓器移植は一般論ではなかなか語れないものだと思います。さまざまな具体的ケースの中で、人々は臓器提供を考え、親族はそれを受け入れるのだと思います。臓器を提供すべき、すべきでないというような単純な議論ではないと思います。自分がいて家族がいる、親族がいるなかで、具体的な話として臓器提供はあるのだと思います。この問題には、正解はないと思います。
なお、親族以外の人への臓器提供は、提供する側から注文を付けることはできませんし、すべき事柄ではないと思います。臓器提供を待っている人がいます。これらの方々は、病気が進行する中で時間ともたたかっています。手術に耐えられる体なのかどうかも重要です。命に優先順位はありません。臓器提供という問題では、提供する側はこういうことをきちんと視野に入れておくべきでしょう。
こういうデリケートな問題を報道するのはいかがなものかと思います。
ぼくは、現在は臓器提供意思表示カードをもっていません。病気になり余命を宣告されたときには、考えるかも知れません。しかし、突然事故などで亡くなるときに、臓器提供をすることは考えにくいと思っています。ぼくの家族は、そういうことに耐えられないのではないかと思っています。話し合いはしていません。ぼくに話す勇気はありません。しかし、今はそれでいいのではないかと思っています。
現代医学は侵してはならない神の領域に足を踏み込んでいると思われる。例えば試験管ベイビーである。本来生まれてくるはずのない人間が存在する。これはいい事なのだろうか。本来、生まれてくるはずのない人間が誕生する。親は嬉しいのだろうが俺はなんだか不自然な気持ちがどうしてもぬぐいきれない。本来存在しない人間が存在している。本来存在しない人間が存在しないというのが自然である。人類が誕生してからずっとそうやって人間は過ごしてきた。子供が生まれないというのには子供が生まれないという理由があるはずである。どちらかの親に問題がある訳である。それを無理やり産ませる訳である。生まれた子供の遺伝子はどうなるのでろうか。次世代に重大なリスクを負わせないないだろうか。いや、論点があらぬ方向へいってしまった。俺の言いたい事は、あくまでも倫理観の問題であった。本来生まれてくるはずのない人間が存在する、とう事を問題にしていたのだ。ひとつには試験管ベイビーとして生まれてきた子供の人生である。本来生まれてくるはずのない人間であった「自分」が試験管で誕生したという事実をどう受け止めればいいのであろうか。子供は親を選べないないから、自分の存在に大いに悩む事になるのではないか。この親から本来生まれてくるはずのない自分が存在する。存在とは何か? この問題を一生抱え込む事になる。耐えられるであろうか。俺は試験管ベイビーの問題は、生まれてきた当の本人の精神的独立性を無視した親のエゴであると思っている。
脳死問題もこの試験管ベイビーに似た特徴を持っていると思うのである。本来、死ぬべき人間を無理やり生かす。問題はないのであろうか。自然の摂理に反していないだろうか。脳死(死体)の臓器の一部を移植して生かす。しかもここでは子供の脳死の問題が取り上げられている。そこに何かおぞましい感覚を俺は覚える。そこまでしてレシピエントが生きたいという感覚が分からんのである。いや、レシピエントではなく、これも親のエゴではないだろうか。レシピエントは案外、そんなに生きたいとは思わず、親がこの子には絶対死んでほしくないというエゴだけなのではないだろうか。ここに試験管ベイビーとの共通性が感じられる。人間、死ぬ定めがくればそれがその人間の人生だったのだ、とは考えないのだろうか。つらい気持ちは当然わかるが、不自然に(他の人間の死体の臓器移植)生かしても、そんなに長くは生きられないのではなかったか。レシピエントの生存率は確かそんなに長くはなかったはずである。これは俺の不確かな記憶であるが、半年後に死んだとか、1年後に死んだとか、2年後に死んだとか報道される。何のために移植手術をしたのだろうかと、暗澹たる気持ちになる。脳死移植は時期尚早、確立された医療ではないような気がする。
日本の法律では、臓器移植という前提がある場合だけ、脳死判定をおこなうということになっています。こういう取り扱いだけでも、違和感を感じる方がいると思います。臓器を移植するという意思がある場合は、人の死を法律と医学的な判断によって早めてもいいということですから。それ以外のケースでは脳死を人の死とは認めないということですから、臓器移植を可能にするために人の死の線引きを変えたという法律になっています。
こういうことに国民的な合意はないのではないでしょうか。
医学と医学の技術が進歩するにしたがって、人の死の定義は変わってくると思います。人間の死というのは、確実に線引きができるものではなく、人間として回復しないいくつもの段階があり、死の線引きが変わってくると思います。しかし、こういう問題と社会的な死の取り扱いとは、自ずから違うと思われます。waoさんが書いたように倫理の問題が横たわります。
自然の摂理という点でいえば、医学の進歩は、自然の摂理を随分縮小してきました。医学が進歩しておらず、手術ができなかった時代であれば、盲腸でも命を失いました。もちろん、インフルエンザでも簡単に命が失われた時代があったと思います。しかし、今では、多くの病気を医学の力で治しています。それは、いわば自然の摂理の領域をせばめてきたともいえます。しかし、生命科学が発展してくると、人間の力で細胞を作ったり臓器を製造したりできるようになるでしょう。
これは、いわば神の領域に人間が踏み込んでいくことなのかも知れません。それは、クローン人間を作ることのできる時代だともいえます。
医療技術はどうあるべきなのか、という問題は、今後ますます大きくなると思われます。医療に経済やビジネスも介在するような状況で、この問題を正常に取り扱うことはできないように思います。
原発に経済が絡みついて、安全神話が生まれたように、医療の分野でも非人間的なことが、経済と絡みついて起こってしまうように感じます。
貧困な国では、臓器移植がビジネスのターゲットになっています。代理母は、もっとビジネスとして成り立っていますよね。医療技術が進歩しても、社会の仕組みの根底に貧困問題が横たわっていると、とんでもないことが起こると思うのです。
少し論理は飛躍しますが、ぼく個人としては、医療における保険点数制度を完全に廃止し、医療に経済が介入できないような仕組みを作るべきだと思っています。そうしないと、未来の医療は大きく歪んでしまうと思うのですが。
waoさんの論点から少しずれて書きました。