歴史を学び政治にコミットしよう

雑感

教育について考えてみました。

戦前の日本は、大学に進学できる階層は限られており、教育は複雑に複線化されていました。教育における階級差が大きかったといえます。
このような社会体制を大きく破壊した1つは、戦争でした。戦争は、日本人の生活を根底から破壊することによって、受け継ぐべき文化や生活様式を破壊しました。戦争によって国民は大きな影響を受けた結果、多くの人々が没落しました。それでも財産を持っていた人々は、貧しかった人々よりも立ち直りがはやかったと思います。

よい側面もありました。それは、侵略戦争の否定によって日本の民主化が進められたということです。日本国憲法は、国民を支配していた明治憲法を否定して、徹底的な民主主義国家をつくる理想を体現していました。国づくりの理想は、教育に託されました。そうやって誕生したのが教育基本法でした。
教育は、日本国憲法と教育基本法によって6・3・3・4制が採用され、単線化されました。法の下の平等、幸福追求権、思想信条の自由、表現の自由、学問の自由、生存権、教育の機会均等などが、教育の民主的な発展の土台となりました。教育の機会均等は、義務教育の充実及び高校への進学の一般化を保障したと思います。

しかし、この理想は徹底的には追求されませんでした。高校の全入は、戦後一時期まで目標だったのですが、この理念は競争を組織する教育によって廃棄されました。
受験競争は、高校の定員管理や大学の定員管理を通じておこなわれています。高校については、5%の生徒が進学できないように定員管理をおこなっているという研究もあります。少子化が進行しても、より一層高校受験が厳しくなっているのは、都道府県教育委員会による定員管理に原因があります。子どもの人数が減るにしたがって、定員を減らし競争が起こるように組織しているのです。

戦後、教育が掲げた理想は、結果の平等を求めるものではありませんでした。教育の機会均等を保障することによって、「どの子も伸びる」とした考え方は、悪平等ではありません。人間の発展の可能性を信じるものだったと思います。ここに競争教育が入ってきました。
日本の教育を振り替えるときに視野に入れなければならないのは、日本社会を支配している勢力が、教育に何を求めてきたのかということです。戦前は、天皇中心の国家体制でしたから、教育は天皇中心主義を徹底的に教え込む教育になっていました。戦後、日本を根本的に支配したのは、財界ですから日本の教育は、財界の意向を色濃く反映したものになりました。競争を組織し、エリートを育成することを強く求めたのは財界です。
積極的に企業に忠誠を尽くし、活力に溢れた人間を育成しつつ、政治的や社会には批判的でない人間になってほしい。──こういう目的に教育が従わされました。

日本史において、日本の近代史や現代史がほとんど教えられないのは、明確な目的意識を持っておこなわれた戦略だと思われます。多くの日本人が、日本の近代史や現代史を知りません。アメリカと戦争をした歴史的事実を知らない若者も増えています。日本史と世界史が受験競争の中で選択授業になっており、日本史を選択しない高校生が多いところに、日本史を学ばない問題があります。
日本は、戦後、日本国憲法を敵視する勢力であった自民党が、政権を担当することになりました。この勢力の中心には、第2次世界大戦を遂行した勢力さえ入っていました。岸信介首相はA級戦犯だった人物です。日本の財界にも戦争責任があった人が数多く残されています。こういう勢力にとっては、日本国民が歴史を学ぶのは都合が悪いということです。
その結果、明治から第2次世界大戦に至る歴史の改ざんが行われても、国民からの反撃が弱いという傾向が形成されてきました。
現代史に対する日本国民の認識は、極めてあいまいなので、歴史の改ざんが盛んにおこなわれても、なかなかその本質が見抜けなくなっています。世界史的に評価の定まっている第2次世界大戦に対する評価が日本国内ではなかなか定まらないのは、こういうところに原因があります。
このような土台の上にたって、自民党や日本維新の会、石原新党が声高に日本国憲法の改正や日本国憲法の廃棄を掲げるに至っています。これらの勢力が目指しているのは、結局は明治憲法的な憲法の制定です。国民が国家権力の手を縛っている日本国憲法を変えて、国民を支配する憲法を制定しようというところに、憲法改正の目的があります。この大目標を実現するためには、どうしても歴史を改ざんする必要があるということです。

同時に日本の教育には、タブーがあります。それは、政治にコミットメントしない、させないということです。教育は、「学問の自由はこれを保障する」となっているのに、日本の学校教育では、時事問題を真正面から取り上げて学ぶということがほとんど行われていません。学ぶとは、生きる力を身につけるという側面があります。生きるということは、人間社会の中で生きるということです。
そのためには、国民の権利や義務を生きた形で学ばなければなりません。子どもの権利条約を日本は批准しています。権利条約の中には、「意見表明権」というきわめて大事な権利が規定されています。この「意見表明権」は、自分たちの学校教育制度や学校運営について、子ども自身による意見の表明を保障するということが入っています。もちろん、日本の政治や社会についても意見を表明する権利があるということです。
子どもが、小・中・高でこの意見表明権を活用して、意見を述べ改善を求めることを通じて、国民が身につけるべき主権者としての権利や義務を学べるのだと思います。

角度を変えていえば、「意見表明権」の行使は、学問にとって最も必要な批判的な精神を培うことに直結するということです。政治や社会、学校運営などについて自由に意見を交わすためには、批判的な精神なしにはできません。人間がつくりだした政治や社会にはたえず矛盾が存在し、問題は山積しています。綺麗な世界ではないということです。こういう社会の問題について、具体的に考えることは、学んだことを社会に生かすという点で極めて大事です。
こういう分野での生きた学びは、不合理を正し改善を求める人間を育成することに直結します。これは、創造性に富んだ人間、豊かで個性的な人間を育成するということです。こういう人間は、当然、政治や社会に対し批判的な目をもつ人間になります。

戦後確立した日本国憲法と教育基本法は、人格の完成を目指すという大きな目標を掲げました。上記に書いたような人間の育成を目指していたといえると思います。しかし、支配勢力である財界は、このような人間の育成を望まず、政治や社会や会社に対し批判的でない人間を求めました。

文化の面でもこのような傾向は一貫してきました。テレビ番組には、社会の問題を見つめる番組もありますが、圧倒的多数は、政治的な批判抜きのものになっています。
政治を避ける傾向は今も支配的ですが、同時にある時期からは、政治を劇場型に編集することによって、より積極的に政治の矛盾を利用しながら政治的なプロパガンダを行うようになりました。政治をオープンにしているかのように装いながら、支配者側の思想をたれ流すという方法がとられるようになりました。これは、マスメディアを利用した情報操作のようなものだと思います。多面的な視点を提供しつつあるかのようにみせながら、支配者にとって都合のいい情報に世論を誘導しようとするので、支配する側にとって最も都合の悪い論調は、徹底的に避けられています。

教育の中心に学問の自由をすえる必要があります。
近・現代史を重視して事実にもとづく歴史教育をおこなう必要があります。
教え込む教育ではなく、歴史の事実を通じて学び考える教育が必要です。
政治や社会に対するタブーを教育現場から取り除く必要があります。
時事問題を教育の中で教え、一緒に考えることも極めて重要です。
社会の分野で教育内容の改革を行えば、それは国語、数学、自然科学等にもよりよい影響を与えるます。
タブーを恐れず、事実を大事にして真実を追及する人間の育成を実現することが、求められています。

人間は、自分自身の手で歴史をつくる。──教育はそういう人間を豊かに育てるかけがえのない人間形成の現場だと思います。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明