須藤みゆきさんの「二十六年目の夏」に寄せて

雑感,文学

民主文学9月号に掲載された須藤みゆきさんの「二十六年目の夏」を読んだ。今回の短編を読んで、なぜぼくがこの人の作品に心惹かれてきたのか、分かったような気持ちになった。父を小さい時に亡くし、母を高校2年で亡くしたぼくたち3人の兄弟妹(きょうだい)の境遇と須藤さんが描いてきた作品世界とは、境遇という点で少し似ているものがあった。今回読み進んでいると、そういうところが作品世界と共感していることに気がついた。

今回の短編は、妹であるさと子が書いた手紙に対する兄からの返事の手紙だった。兄は大企業の研究室勤務となり、さと子は民医連系の病院の薬剤師になった。同じ年に就職した兄は、内定した里子に対して、「内定を、断ってくれないか」と頼んでいる。手紙にはこの日のやり取りとともに、兄がその時にどう思っていたかが綴られている。
同じ境遇の中で生きてきた兄とさと子の歩んだ道の違い。小説は、この違いがどのようにして生まれてきたのかが、兄の手紙という形で具体的に示されている。

ぼくは、以前から、同じような境遇の中で生きたとしても、日本共産党に共感して、差別のないよりよい社会をつくることに情熱を見いだした人と、他人を見返してやる、この境遇から這い出してやる、というように生きた人に分かれると思ってきた。今回の作品は、それをもっと具体的に目の前に提示してくれるものになった。
ぼくの場合、母が亡くなったのは17歳だった。経済的な苦労はしなかったという感覚があったのは、母が小学校の教師であり、4年間に及ぶ長期入院中も給料が保障されていたからだ。大学生の兄と高校生の自分と中学生の妹の3人で、子どもたちだけの家庭を形成して生活していたので、ぼくが3人の兄弟の食事を作り、洗濯は妹と分担するという生活をしていた。家計は兄が全てを管理していた。ぼくの当時の1か月の小遣いは5000円だった。この額自体は決して少なくない。しかし、学校の食堂で昼食を取っていたので、小遣いの全ては昼食代に消え、月の半ばにはまったくお金がなくなるという状態だった。朝ご飯を食べる習慣がなかったので、昼食代がなくなると朝と昼の食事をとらずに夕ご飯だけ食べるという生活をしていた。兄には負担をかけたくないという気持ちがあったので、5000円の小遣いがなくなっても、お金がないと言ったことがない。月の半分近く、朝食と昼食を抜かしていると、次第に貧血状態になった。朝起きると目眩がし、学校で起立、礼、着席という号令で立ったり座ったりするだけで天井が回転した。
夕食の予算は1000円だった。1000円で毎日メニューを考えて食事を作っていた。笠田駅前にあった借家は、中学校にも高校にも近いところにあったので、親の監視がないぼくの家は、兄貴の友人とぼくの友人が大量に集まってくるたまり場だった。家に泊まっている友人も数人はいて、1000円の予算で5人分の食事を作ることも多かった。予算が限られているので、たとえばカレーはいつもポークカレーだった。

そういう状態を惨めだと感じたことはなかったが、他の家庭の同級生と比べて、贅沢はしてはいけないという意識はあった。単車の免許を自由に取れる時代だったので、免許は取りに行ったが、単車は買うことができなかったので、友人を通じて3万円ほどの中古単車を手に入れるというようなことをしていた。母に対して経済的なお願いはできないという感覚があった。3年になったときに制服がくたびれてきて、着られなくなったので、兄貴の友人が着ていた極めて短い上着をもらって学校に着て行った。非常に丈の短い変わった制服だった。それでもあまり惨めな感覚はなかった。

母が死んだことによって、兄貴は大学を中退し、高校の恩師の紹介で橋本市の本屋に就職した。高校1年生になった妹は、子どもだけで生活する環境で生活するのはよくないということになり、高野山の従兄の家に住んで高野山にある高校に進学した。生活上変化が起こらなかったのは、ぼくだけだった。高校3年生になったぼくは、母の死後もほとんど変わらない高校生活を送っていた。友人たちは相変わらずぼくの家に集まっていた。

ぼくは、当時非常に内向的な性格をしていて、自分の世界の中で生きていたような感じがする。社会的な意識が非常に乏しく、まわりの状況も正確には把握していなかった。大学に進学するという明確な目標もなく、多くの同級生が大学に行くという中で、自分も漠然とそう考えているというような状態だった。兄貴の世話になっていること、働かなければ食べていけないこと、そういう社会的に当たり前のことが、自分の中では全く明確になっていなかった。
そういう自分に対して、社会に目を向けさせてくれたのは、民青同盟の存在だった。まったく「おつきあい」というレベルで、15歳で民青に入ったのは、兄貴が民青同盟に入っていたからだった。民青同盟のなんたるかを全く理解しないまま、1年程度会議に出ていたが、2年になるときには未活動状態になっていた。このような状況で生活しているときに、大学生だった民青同盟員が、おそらくは、ぼくの境遇に心を痛めて、何とかしてあげたいという思いから、ぼくをたびたび訪問してくれるようになっていた。その時、ぼくはすでに高校3年生になっていた。

社会主義と資本主義。この2つの社会の違いはなにか。ぼくが民青同盟と日本共産党に接近したテーマは、こういう問題だった。自分の社会的な状態が共産党に接近させた要因にはなっていなかった。しかし、無自覚ながら自分の中の根底には、母の死があった。母の死後、ぼくは大人は汚い、世の中は汚いというようなイメージを強烈に持つようになった。こういう意識が生まれたのは、おそらく田中角栄の金権腐敗問題にあったのだろう。しかし、世間で何が起こっているのかという具体的な自覚がないまま、大人の汚さだけが強烈に意識されていた。社会に対して懐疑的な気持ちは、社会に対する問題意識として結びついてはいなかったが、母の死以後自分の目が、さまざまな問題を考える方向に動いていたという自覚だけはあった。

内向的な性格で社会性のないぼくは、ものすごく頭でっかちな形で日本共産党に接近した。理屈から共産党に近づき、次第に社会の現実を知るようになったというのは、かなり変わった接近の仕方だった。ただ、高校を卒業し、3月14日に日本共産党に入ったときに、一番嬉しかったのは、大人は汚くない、真面目に生きている人はたくさんいる、という思いだった。日本共産党に集まっている人々には、社会の進歩を信じる純粋な気持ちがあった。この純粋な気持ちをもっている大人に出会えたことが、自分の支えになった。

自分の境遇を特異なものとして自覚せず、貧しさからはい上がるというような意識もなく、自分が真っ直ぐに生きられたらそれでいいというような思いしか描かず、お金の少ない生活に慣れていたので、民青同盟の仕事について、安い給料しかもらえずに生活していたときにも、貧しさということへの自覚はほとんどなかった。貧しさからはい上がるとか、自分の生活をよくしたいということではなく、誠実に生きたいという思いが自分の心の中心にあった。

和歌山大学の夜間を選択したのも、いくつかの大学受験に失敗し(高校3年間全く勉強しなかったので当然の結果だったが)、先生のすすめに応じて受験しただけのことだった。ここに入ることができたので、マルクス主義を学びたいという気持ちで大学に行くようになった。社会主義と資本主義の違いを見極めたいという気持ちから出発した大学での学びは、非常に面白いものだった。経済学の講義は、食い入るように聴いていた。大学生活とともに民青同盟の活動と日本共産党の活動をはじめ、18歳で和歌山市に引っ越しをして、大学生のまま20歳で民青同盟の専従者になった。ふり返ってみると、専従者になるまでの道も、自分でどう生きて行くのかという社会的な自覚には、乏しかったし、経済的生活者という自覚は極めて乏しかった。

須藤みゆきさんが、描いてきたさと子の世界は、ぼくと似ている境遇という枠組みはあるものの、もっと貧しさと向きあわざるを得ない厳しいものだった。父が亡くなったあと、さと子の母親は、新聞配達で生計を支えていた。病気だとはいえ、教員として給料が出続けていたのほほんとしたぼくたちの生活とは、全く違う厳しさがそこにはあった。

母の死後、ぼくたち3人にも試練はやって来た。兄貴は1年足らずで就職先の本屋に行かなくなり、母の残したお金で遊び歩いて酒浸りの生活に入っていった。ぼくが大学1年になったときもすっとプータロー生活をしていて、わが家では、兄貴に対して兄貴の同級生がコカコーラの1リットル瓶で殴りつけて大けがをさせる事件が起こったり、やくざにからまれた兄貴のその同級生が、女の子と心中事件をわが家で起こしたりということが相次いだ。
パトカーと救急車が2日連続でわが家にやってくるという事件からしばらくして、ぼくは兄貴に和歌山市に出ようという提案を行った。和歌山に行けば兄貴も就職できる。ぼくも大学の近くに行けば、生活しやすくなる。こういう判断だった。兄貴は市内で就職を実現したが、数か月後、また会社を辞めて遊びだした。妹が高校を卒業して、和歌山のアパートに来たときに、兄貴は蒸発して居場所が分からなかった。こういう状態に翻弄された妹は、恋人を作って家を飛び出してしまった。ぼくが20歳の時のことだった。母が亡くなって3年、母に経済的に支えられていたぼくたち3人は、母という守り神をなくしたことによって、空中分解して崩壊した。妹はそのまま結婚し、兄貴は奈良で発見されて、従兄のもとで働くようになり、わが家に残ったのは、ぼく1人だった。何の話し合いもなく、ぼくが家財道具一切を引き受けるようになった。高校を出て大学に行き、民青同盟の専従者になる中で、ぼくはようやく自分の置かれた境遇と向き合い、社会人としての感覚を曲がりなりにも身につけるようになったと思われる。母が死んで以降20歳の頃のぼくの生活は、嵐のような時代だった。

須藤さんの小説世界に気持ちが重なっていく。さと子の兄の手紙を読みながら、涙が流れてきた。さと子の兄の思いにも心が動く。土砂降りの雨の日、母が配達先で土下座させられて謝っていた姿を見た兄は、この光景から逃れるように必死で努力をして、自分の生活を打ち立てた。しかし、手紙の最後にこの時のことをもう一度書いている。土下座させられた母の表情は、温かい湯に浸かっているような穏やかな表情をしていた。兄は「今の私には、その時の母の表情の本当の理由がわかります。」と書いて、次のように手紙を続けている。
 「母は耐え抜いたのです。
 理不尽なことや、尊厳をめちゃめちゃに傷付けられるようなことを言われてもじっと耐え抜き、そして、耐え抜いたものだけが持つ、本当の強さがその表情を作りだしたのです。
 もし私がもう一度、この世に生を受けることがあるとしたら、私は雨の中で、同じ人間に対して土下座をさせるような人間ではなく、母のように、それを耐え抜く強さを持った人間になりたいと思います。」

さと子は、兄に対して「たとえ生きる道が違っても、私たちは同志です」と手紙に書いた。この手紙に対して、兄は「同じ境遇に育ち、同じ苦しみを味わい、同じ記憶を共有し、そしてその記憶に対しても同じ涙を流せる。そんな同志がいることに、私は幸せを感じています。」こう返事をした。兄妹の心がつながりあうのを感じる。この手紙をさと子はどう受けとめるのか。続きを読んでみたい。

ぼくの兄貴が脳梗塞になり、妹と2人で兄貴の病室に何度も行くようになり、3人で生きてきた「道」らしきものを振り替える機会が増えている。時を隔てても、共有した時間は消え去らない。病気になってから良く笑うようになった素直な兄貴と同じ空間にいると、過ごしてきた時間を懐かしくも愛しくも感じる。虚構を交えているとはいえ、自伝的な小説を書くことは、自分の人生を繰り返し生きることにつながる。多くの人々の生活には、さまざまな出来事が折りたたまれている。そこには、語るべき何かがあり、書くことによって乗り越えていける何かがある。須藤みゆきさんの小説を読んでいるとそんな気持ちになる。


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雑感,文学

Posted by 東芝 弘明