共産党という党名に込められたもの(1)

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日本共産党に必ずといっていいほど寄せられる疑問の一つは、「党名を変えた方がいいのでは?」というものだ。
日本共産党という党名の共産党という名称に嫌悪感があるということだろう。
共産党というとソ連共産党や中国共産党をイメージする人も多いかも知れない。中には北朝鮮を思い描く人もいるだろう。
共産主義というイメージには、自由と民主主義を抑圧し、一党独裁で貧しいというイメージがつきまとっているかも知れない。
今日は共産党ということについて、難しく書いてみたい。
共産主義とは何かという学説的なことからこのテーマに取り組みたいということだ。
ソ連型の社会が共産党のイメージのチャンピオンだったことは間違いないと思う。
しかし、このソ連型の国は、共産主義とはかなりほど遠い国家体制だった。
自由と民主主義の発展としての社会主義・共産主義という本来の姿を大きく歪めたのは、スターリンだった。レーニンの「国家と革命」にもプロレタリアート独裁という誤った規定があった。ただしレーニンの場合は、労働者階級が、権力を握るという点を強調するためにプロレタリアート独裁という言葉を使い強調するという側面もあった。
マルクスとエンゲルスは、革命の展望として議会制度をつうじての平和的な革命の可能性を示唆していた。その当時の議会制度は、まだ十分に発達しておらず、現実的には議会をつうじての革命ということを探求できない時代だったにもかかわらず。
人類の歴史は、原始共産制という平等な社会から全人格を否定する奴隷制、土地に住民を縛り付けたりして移動の自由を認めず、職業選択の自由に大きな制限をかけた封建制、職業選択の自由、土地所有からの自由、参政権、基本的人権を保障した資本主義へと発展してきた。
日本国憲法にある第25条の規定「健康で文化的な生活を営む権利」という考え方は、人類史の画期をなすもので、国民の権利を物質的に保障する考え方を含んでいる。この規定が憲法に盛り込まれている国は少ない。
マルクスとエンゲルスが確立していった科学的社会主義は、人類の歴史が自由と民主主義を次第に花開かせてきた歴史だったことを明らかにし、自由と民主主義が花開く社会が社会主義・共産主義であることを展望していた。
「原始、女性は太陽であった」という母系制の社会から、生産力が発展することによって私有財産が生まれ、やがて家族が発生し、人類は階級に分裂した。階級に人類が分裂することによって女性が世界史的に敗北し、母系制社会は失われていった。
人類の歴史を見ると資本主義が最終的な社会体制でないこと、資本主義は、資本主義のもつ経済法則によって次の社会の取って代わられることを展望したのが史的唯物論だった。
史的唯物論は、宇宙の誕生、地球の誕生、生命の誕生、人類の誕生、原始共同社会から階級社会へ、再び無階級社会へという展望をもち、やがて人類の死滅までを視野に入れている。
人類の本史は、自由と平等、人類の物質的な幸福の条件が成立する社会主義・共産主義によって始まる。階級に分裂した社会は、人類の前史にしか過ぎない。こういう見方をしていた。
したがって、
資本主義は、人類が到達した最終的な経済システム、社会システム、国家形態でないというのがマルクスとエンゲルスの見方だった。人類の歴史が、原始共産制から奴隷制、封建制をへて資本主義に発展してきたように、資本主義も次の新しい社会体制である社会主義へと移行していく。これが2人の到達した結論だった。
封建制の時代が長く続いていたときに、圧倒的多数の人々は、この封建制が未来永劫続いていくとおもっていたのではないだろうか。江戸時代のど真ん中で生きていた人々は、江戸幕府の崩壊を思い描くことはできなかったのではなかろうか。
資本主義の発展は、日本の場合、明治維新からはじまった。1868年。今からちょうど140年前。日本の資本主義は、まだ140年程度しか歴史をもたない。しかし、この資本主義のシステムは、もうこれ以上、日本のような資本の価値増殖一辺倒の社会体制を続けていては、人類そのものが維持できないという根本を揺るがすような矛盾に向き合いつつある。地球温暖化を抑止する活動に真剣に取り組めないような、利潤追求社会の害悪はすさまじく大きい。
この経済システムをつくりかえて生産と消費のバランスを実現し、自然との調和を図るという社会体制を確立することはできる。日本共産党は、そういう展望をもっている。
資本主義が抱え込んでいる根本的な矛盾とはなんだろうか。
資本主義は、資本の価値増殖というところに最大の本質がある。
労働力を商品として購入し、商品を生産することによって剰余価値を生産し、拡大再生産することによって資本を増殖させ、くり返し資本を市場に投入して増殖を繰り返す、利潤第一主義というのが資本主義の本質だ。
資本にとって、資本を制限するものは、資本そのものの規模だ。資本の規模によって生産が制限される。TOYOTAがもっと大きな資本をもっていれば、もっと大量の車を生産できる。TOYOTAの生産台数が限られるのは、TOYOTAの生産システムにまだまだ限界があるからだ。資本は、儲かるならば飽くなき生産を追求する。価値を増殖することが資本の生産のすべてであり、労働者はそのための不可欠な部品にしか過ぎない。
「我亡き後に洪水は来たれ。これがすべての資本家のスローガンである」
このマルクスの指摘は、地球温暖化に直面している現在の地球の現状に投げかけられている告発でもある。CO2の削減に対し、日本とアメリカとカナダが数値目標を持つことに反対した背景には、資本の動向がある。日本のCO2排出の51%は、180の工場から出されている。これらの企業の排出を抑制すればCO2の排出は確実に削減できる。しかし、日本政府はこういう規制には乗り出さない。
資本の価値増殖過程は、巨大な生産力を実現するが、その生産力を活用する市場を生み出さない。価値増殖のために、人口の70%を占める労働者の側には、貧困と抑圧が生み出される。価値増殖過程に組み込まれている労使関係は、労働者を劣悪な条件におく。日本では、非正規雇用が増え派遣や契約社員、請負が蔓延している一方で、資本がバブルの時代をはるかに超えて儲けをあげている。巨大な生産力は、相対的に小さい市場に直面し、たえず相対的な過剰生産恐慌の危険にさらされている。
巨大な生産力と消費力のバランスをとれない社会には、安定的な未来はない。日本の資本主義の矛盾を突破するためには、国民の購買力を高める必要がある。賃上げと安定的な雇用、正社員の増加、これなしに、日本の衰退は避けられない。
しかし、資本にとって非正規雇用の増大=利潤の増大ということになる。
日本政府は、規制緩和の流れのなかで資本の要求を後押しし、非正規雇用の拡大のために法律を緩和してきた。
今日の日本の矛盾を増大させたのは、アメリカの要求、財界の要求、この二つの要求をのんできた日本の政治だろう。
資本主義の矛盾の解決としての社会主義。ここに共産主義という言葉のもつ意味がある。
日本共産党は、豊かな生産力を生かせる社会の建設、それは国民が文字どおり物質的な豊かさを享受し、物質的な豊かさを基礎にして、人間の成長を保障する社会をつくることを展望している。
それは、人間の歴史の中で文字どおり自由に人間が発展できる時間をもてる社会でもある。
飛行機が空を飛べるように、人間は、経済法則を把握し活用できる社会をはじめてつくるようになる。それが社会主義・共産主義というものの展望だ。
生産手段を国民の手に移すことを実現した社会は、国民を生産の主人公にし、生産以外の社会生活において、個人の持つ可能性を多方面に発展させる社会の基礎をつくる。
自己実現。これがはじめて本当の意味で一人一人の現実的な目標になる。


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Posted by 東芝 弘明