ぼくの一般質問の種明かし

雑感

一般質問が終了した。
質問は、テーマにした問題について、できるだけ情報を集めて徹底的に準備をする。論点を多面的に把握する。そうすれば、自然に質問は組み立ってくる。今回の質問原稿は、A4の用紙で13ページ。質問の横に答弁を書き込めるようにしているので、13ポイントの大きさの文字で、右に4割ほどの空欄を開けるようにしている。
質問を書いているソフトは、EGword。このソフトにもアウトライン機能がついているので、このアウトラインプロセッサで原稿を書く。質問を折りたたんだり、ブロック単位で異動できるので操作がしやすい。ときには、予想される答弁を小さな文字で書き込んでおくこともある。ブロック単位で文字の大きさを変えることができるし、階層を上げたり下げたり簡単にできるので、アウトラインプロセッサは使い勝手がいい。
この原稿を印刷するときには、レイアウトモードに戻す。質問か所には空白欄を開ける。A4用紙で13枚の原稿を書くと質問しきれない。今回も予定していた最後の設問にたどり着けないまま、終わらざるを得なかった。
最初は、原稿通り質問を始める。途中から波に乗ってくると、原稿から少し離れる。飛行機が離陸するみたいに。そこからは原稿に戻ったり離れたりしながら質問を行う。その場で考えながら質問を展開した方が臨場感が出てくる。

質問には、ぼくなりの発見を折り込む。発見は質問を準備するプロセスの中にある。
今回でいえば、次のような発見があった。
公立図書館の使命は情報の提供にあるが、学校図書館は、この使命(学校図書館の場合は「学習・情報センター」)とともに「読書センター」という使命を負っている。読書センターという役割が学校図書館にはあり、公立図書館にはないというところに違いがある。
なぜ、公立図書館は、読書センターではないのか。
じつは、これは奥の深い問題であり、「図書館の自由に関する宣言」と深い関係にある。今回の質問では、このテーマには触れなかったので、なぜ公立図書館が読書センターでないのかは、そんなに深く明らかにはしなかった。公立図書館が利用者に提供するのは情報であって本だけではないという点を紹介して、情報センターだという話はした。
戦前の図書館は、啓蒙的な性格をもっていた。絶対主義的天皇制という民主主義が制限されていた時代の、啓蒙となると読む本には制限が出てくる。良書という名の下に、思想統制をおこなうという傾向が非常に強かったということだ。

現代の図書館は、このような立場には、全く立っていない。人類の外部記憶装置ということなので、ありとあらゆる情報を図書館に集めるということが基本になっている。したがって、図書館はいわゆる良書なるものを集める機関ではない。

「図書館の自由に関する宣言」を引用しておこう。

第1 図書館は資料収集の自由を有する
 図書館は、国民の知る自由を保障する機関として、国民のあらゆる資料要求にこたえなければならない。
 図書館は、自らの責任において作成した収集方針にもとづき資料の選択および収集を行う。その際、
(1) 多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。
(2) 著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除することはしない。
(3) 図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。
(4) 個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。
(5) 寄贈資料の受入にあたっても同様である。図書館の収集した資料がどのような思想や主 張をもっていようとも、それを図書館および図書館員が支持することを意味するものではない。
 図書館は、成文化された収集方針を公開して、広く社会からの批判と協力を得るようにつとめる。
第2 図書館は資料提供の自由を有する

 国民の知る自由を保障するため、すべての図書館資料は、原則として国民の自由な利用に供されるべきである。
 図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。
 提供の自由は、次の場合にかぎって制限されることがある。これらの制限は、極力限定して適用し、時期を経て再検討されるべきものである。
(1) 人権またはプライバシーを侵害するもの
(2) わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの
(3) 寄贈または寄託資料のうち、寄贈者または寄託者が公開を否とする非公刊資料
 図書館は、将来にわたる利用に備えるため、資料を保存する責任を負う。図書館の保存する資料は、一時的な社会的要請、個人・組織・団体からの圧力や干渉によって廃棄されることはない。
 図書館の集会室等は、国民の自主的な学習や創造を援助するために、身近にいつでも利用できる豊富な資料が組織されている場にあるという特徴を持っている。
 図書館は、集会室等の施設を、営利を目的とする場合を除いて、個人、団体を問わず公平な利用に供する。
 図書館の企画する集会や行事等が、個人・組織・団体からの圧力や干渉によってゆがめられてはならない。

公立図書館も私立図書館もこの宣言にしたがって仕事をしているところが多い。
学校図書館が、読書センターというような性格をもつことができるのは、教育機関として学校の教育方針が確立しているからだ。この教育方針があるから、読書センターという性格が可能になる。それでも、学校図書館の資料収集は、学校の教育方針よりもさらに幅が広い。文部科学省の教育方針を真正面から批判して、改善を求めている本を集めても何ら問題にはならない。むしろ、学校図書館は、教員の求めによってこれらの本を多面的に収集すべきだと思う。学問の自由は、文部科学省の方針を軽く乗り越える。
しかし、教育方針に沿って読書センターとしての役割を果たすので、どうしても普通の図書館よりも蔵書の幅は狭くなると思われる。たとえば、読書センターである学校図書館には、「わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの」という基準に基づいて、エロ本を置く訳にはいかないだろう。「わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの」という書き方でいえば、かなりきわどい本を集めてもいいことになる。

少し脱線したが、資料を収集し読み込んでいくと、今まで知らなかった問題を深く知ることができ、それが発見と驚きになって、質問が組み立ってくる。
図書室と図書館の違いについても発見できたのは収穫だった。図書館は、資料と施設と人で成り立っている。しかも人(=司書)の果たす役割は75%だという。支所を置かない学校図書館は、図書室であり本の倉庫のようなものになってしまう。法的には学校図書室というのは、存在しない。あるのは全て学校図書館だ。
この学校図書館が、図書館となるためには、人的配置、つまり司書を置く必要がある。

自分なりの発見は、質問の結節点になるとともに、話の転換点にもなる。自分なりの発見が積み重なっていく質問。ここに手応えがあると言ってもいいだろう。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感図書館

Posted by 東芝 弘明