荒瀬先生の講演から得たもの Ⅰ

教育

伊都地方PTA連合会の総会で講演した荒瀬克己先生は、京都市の堀川高等学校で校長先生だった。ここで改革的な取り組みを行った方だ。ネットで検索すると取り組みの一端を読むことができる。

最初に書いておきたいのは、資本主義における教育改革の限界についてだ。この問題については、荒川先生に批判の矛先を向けるものではない。資本主義社会である現代日本において、教育界の考え方に最も影響を与えているのは、産業界からの要請だろう。戦前は、産業界の要請よりも、絶対主義的天皇制による国家主義的な要請が最も強いものだった。それは教育の支配というべきものだった。
しかし、現在の日本の教育は、産業界の意向に大きく左右されてしまう。

荒瀬先生の話も、高校生が社会に出るにあたって身につけておくべき資質のような話だったので、それは真っ直ぐに産業界が何を求めているのか、という色彩を色濃く持つものだった。これは、教育の目的を歪めかねない傾向を持っている。産業界の要請が、必ずしも人間の発達にとって最善のものだとは言いがたいからだ。しかし、同時にこれは、若者が社会に出て生きていく上で、どうしても身につけるべき資質という側面も持っている。荒瀬先生が高校生に身につけてあげたいと思って取り組んできたものは、まさに現実社会における「生きる力」に直結するものだといってもいいと思った。
話の中でメタ認知能力(物事を俯瞰してみる能力、鳥の目のようなものの見方)という認識力の話が出されたが、産業界の要請という話は、それ自身をメタ認知能力を使って俯瞰しておく必要がある。つまり、産業界の要請には、積極的な側面とそのもの自身が持つ危うさがあるということだ。

荒瀬先生は、学校教育法の第30条と第51条を紹介して、教育の目的を話された。この話の展開が興味深かった。この方の教育改革は、これらの法律に根拠をおき、それを小・中・高を通じて積極的に実現しようとしたものであり、しかも、極めて具体的に、今日の学校教育の現場で、カリキュラムの中にきちんと組み込んで行われたところにすごさがある。
普通、考え方を示しても、それをなかなか現実の学校現場で実践するのは難しい。超多忙化している学校の中で荒瀬先生の行った取り組みは、一体どうしてそういうことが具体的にできたのか、という驚くべき内容を持つものだった。講演では、その辺の取り組みのプロセスについては、語られなかった。時間があれば、どのようにして実践的な取り組みができたのかを深く知りたいと感じた。

紹介された法律を引用してみよう。

学校教育法
(小学校)
第三十条  小学校における教育は、前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第二十一条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
2  前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。

(中学校)
第四十五条  中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする。

(高校)
第五十一条  高等学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二  社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。
三  個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。

荒瀬先生は、高校の校長先生だったので、高校教育の目標である51条を具体的に身につけるための取り組みを行った。
「豊かな人間性」「創造性及び健やかな身体」「国家及び社会の形成者として必要な資質を養う」「社会のおける使命の自覚」「個性に応じた進路の決定」「一般的な教養を高める」「専門的知識、技術及び技能の習得」「個性の確立」「社会についての広く深い理解と健全な批判力」「社会発展に寄与する態度の養成」
法律に書かれていることをまとめると上のような記述になる。先生は、これらの目標は、ほとんどの高校で全くと言っていいほど実現していないといった。高校教育は、まったくこの法律の要請に応えられていないということだった。

この話を聞きながら、ぼくは尾木直樹さんの講演を思い出していた。
「教育にとって最も大切な精神は、批判的精神です。これが、文部科学省のいう教育の目的の中には全く入っておらず欠落しています」
尾木さんはこう指摘した。小学校と中学校の教育目標には、高校にある「健全な批判力」という考え方がない。
ぼくは、批判力というものは、最も小さい時から一人ひとりの子どもの中で育んでいかないと人間として豊かに育たないと思ってきた。ここでいう批判力というものは、その芽というべきもので、小さい子どもなら誰でも、ものすごく豊かに持っているものだと思っている。この批判力の芽を育てないと知的好奇心は育まれない。
小さい子どもは、自分を認識し、相手を認識し、友だちを作り、まわりのことを次第に認識していく。このプロセスは、謎解きの連続になる。どうして、なぜという問いかけの繰り返しによって、小さい子どもは自分の世界に対する認識を豊かにして行く。大事なのは、この認識のプロセスを大事にして、育ててあげることだ。
批判力の芽は、すごく小さい、言葉を話さない段階から非常に力強く始まっていく。
まわりの大人は、子どもが自分の力で世界を認識し、伸びようとするその時に、伸びようとする芽を摘みとってはならない。

小学生の段階になると、批判力の芽を育ててきた子どもは、当たり前のように政治や社会のことに興味と関心を示すようになる。自分が生きている世界のことについて、当然興味と関心をもつのは当たり前だからだ。
この成長の素直なしなやかな伸びに対して、大人は真摯に、誠実に向きあって、子どもが認識のプロセスを広げる手助けをしなければならない。

多くの人は、せっかく子どもが自由に豊かに伸びようとしている芽を、知らず知らずのうちに摘みとってしまっている。子どもの問いかけは、成長の具体的な契機なのに、せっかくのチャンスを親が無自覚に摘みとったり、意欲をくじいていたりする。「子どもだから、そんなことはまだ考えなくてもいい」とか、「忙しいから」といって誤魔化して、子どもの疑問に答えてあげないということがものすごく多い。

その一方で、勉強しろと押しつけている。人間の伸びる力というものは、主体的に意欲的になったときにサポートすることによって育まれる。「今は忙しいから今度ね」と言って、親が忘れてしまって子どもの疑問に答えてあげないというようなことを積み重ねていくと、子どもは次第に「親に聞いても答えてくれない」ということになる。
忙しいときはある。でもそのときに、「今は忙しいからだめだけど、調べて答えるから待っててね」といって、必ずその日のうちに答えてあげるということが大事だと思う。
会話がないと嘆いている親はかなり多い。でもその多くは、小さい時からずっと親自身の手で深い会話ができるチャンスをつぶしてきた結果であることが多いのではないだろうか。

批判力の芽というものは、小さい時に一番溢れるように出てくるということだ。この芽を育てていけば、自分で問題意識を持って、自分で解決しようとする知的好奇心が育ってくる。
子どもと大人に境界線はない。よく子どもに対して、「これは大人の話だから子どもは入ってくるな」という態度を取って子どもを退けることが多いけれど、ぼくは、子どもは1人の人間として、どのような問題でも発言して意見を表明する権利を持っていると考えている。子どもの意見に真剣に耳を傾けることが、子どもを人間として対等に扱うことになり、子どもなりに物事を真剣に考えることになる。
「子どもの権利条約」の考え方の中に、意見表明権という権利が規定されているが、この意見表明権というものは、ものすごく大事な権利だと思っている。この権利を大胆に認めて保障することが、子どもの自主性や自発性を育む極めて大きな力になる。

学校教育法の中で、小中学校の時代に批判力を育てるようになっていないのは、日本の教育の致命的な弱点になっている。この部分を欠落させて、自ら学び、自ら問題を解決する子どもを育てるというのは、不可能に近い。
基礎基本を徹底して、批判力は高校生の段階で身につけるという考え方が、日本の学校教育法の基本的な考え方だろう。
それが「健全な批判力」という表現に如実に現れている。こういう物事のとらえ方は、人間の発達を深く理解していないところから来ているし、同時に企業や社会に忠誠を尽くしながら従順に従い、同時に創造性豊かであってほしいという御都合主義が横たわっている。

子ども時代から強く持っている批判力の芽を豊かに育んでいくと、子どもは、小学校の時代から政治や社会にも疑問の目や批判的な意識を持つようになる。中学校時代になると、政治や社会のことを歴史や現代社会で習うようになるが、子どもの時代から培われた精神は、当然学ぶことを深く立体的に、重層的にとらえるようになってくる。
しかし、日本社会はそういう人間の全面的な発達を望んでいない。物事に対して深く考え、批判的に検討し、自分なりに答えを見出していく人間は、政治や社会や自然に対して深く考えるようになる。そうなると、人間は、人間が歩んできた歴史や社会に対して、ものごとをメタ認知よろしく俯瞰的にとらえるようになるし、根本的な問いかけをするようになる。

全人格的な発展というものは、批判的精神を軸に培われていく。これは、しかし、会社の利益を優先する不合理な現実とはあわなくなってくる。創造性豊かに、しかも自発的精神に満ちた、しかし社会や会社の抱えている問題については、無批判的で従順な人間を育てたいというような御都合主義が、学校教育の批判力の中に潜んでいる。
社会に対して疑問をもたない人間を小学校と中学校の時代に育てて、高校時代に「健全な批判力」を育てるという考え方にはものすごく大きな疑問がある。

学校教育法にはこのような疑問があるけれど、荒瀬先生は、この条文を引いて、高校生が身につけるべき必要な思考方法について講演された。明日は、もう少しこのことを書いてみたい。この話には、大いに学ぶべきものが入っていた。


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Posted by 東芝 弘明