教育って何だろう?

教育

コメントを読んでいて、あらためて学校教育について考えました。
複式の学校の子どもたちの受験に関わる学力は、複式の規模にもよると思いますが、小規模な学校の場合、受験学力は総じて高いといえます。先生の目が行き届くのと、分からないところをきちんと教えてもらえる、いわば少人数の個別指導ができる条件があるということです。受験学力は、学んでいる内容が理解でき、勉強に興味を持って取り組んでいるかどうかに関わります。

かつらぎ町の教育長は、一貫して「切磋琢磨」という表現を使ってきました。この言葉には、豊かな人間形成という意味も込められているようにも聞こえますが、切磋琢磨の中心には、テストによる競争教育があるように感じます。教育長がこの言葉を好むのは、中学校出身の教師だったからかも知れません。
中学校は、テスト、テストで子どもの競争を組織しています。わが家の娘が中学生なのでテストの状況はよくわかります。最近の中学校は、順位を本人に開示しています。成績が上位の子どもたちは、この成績発表が確かに勉強の励みになっています。しかし、このシステムは、勉強のできない子どもたちにとっては、まったく意欲を引き出すものにはなっていないばかりか、低学力の状態をテストのたびに明らかにしています。切磋琢磨どころか、子どもたちは組織された競争の中で、受験学力さえ低下させています。

切磋琢磨のもう一つの側面である人間形成はどうでしょうか。
大人数の中で人間の豊かな形成が実現できているかというと、これがかなり深刻です。子どもたちの世界で起こっている矛盾は、「いじめ」や「ひきこもり」という形で露呈しています。大人数の中で「孤独」と「孤立」が深く進行しています。豊かな内面が育っていない傾向が強く表れていて、子どもと子どもの人間関係がかなりうすっぺらい表面的なものになっています。どうしてそう言うことになっているのか、何が問題なのか、探究していかなければならない課題が横たわっています。
競争主義的な教育と歪んだ社会の問題があるという指摘がなされています。では、そういうものを打ち破って、豊かな人間形成と豊かな人間関係を生み出す学校とはどういうものなのか、はなかなか具体的に明らかになっていません。

子どもの権利条約の推進を担当している国連がいうように、過度な競争教育と民間の教育機関なしに達成できない教育目標が原因だとして、これを取り除く努力を始めるためには、国が教育のあり方を根本的にただすことが必要です。矛盾は深刻ですが、国民の意識は、矛盾の根本原因が日本の教育制度そのものにあるという方向には、まだ向かっていないと思います。
国民の中には、この問題点をきちんと把握して、改善すべきだという意見があり、日本共産党のように克服のための展望を明らかにもしていますが、その一方で日本の教育を一層管理と競争の中に置こうとする傾向が強まっています。権力を握っている勢力の教育改革が、こういう方向を指向しているので、事態はより一層深刻になっています。

日本の教育の異常な歪みは、学費がものすごく高い点にあります。高い学費と競争教育は深くリンクしています。成績の優秀な子どもたちは、多くは比較的恵まれた環境の下で高額の学費を親が必死に出して支えています。こうなってくると理屈の世界ではありません。きれい事を言っていてもはじまらないのです。とにかく社会システムになっている受験競争(親にとっては経済地獄か)に打ち勝たなければ、将来の安心は手に入らない(いい大学に行っても将来の安心は手に入らないのだけれど)という強迫観念があります。この強迫観念の強い社会の中で、わが子の成長を温かく見守って、自由な生き方を選択していいよと達観している人はかなり少ないと思います。この達観している人も、受験競争と無関係ではありません。意識して達観しないといけないような感じがつきまといます。
変な国です。日本は。
「東芝君みたいにきれい事じゃすめへんで。自分の子どもが受験になったら分かるって」という友人もいます。この言葉は、すさまじい現実との格闘からは逃れられないということを意味していると思います。

話を地域の学校に戻しましょう。
街にある笠田小学校は270人ぐらいの児童がいて、1クラスは20数人から30数人の編制になっています。こうなってくると潜在的に勉強についていけない子どもたちが一定割合存在します。学力が身についていない深刻な状態があります。規模の大きな学校の方が切磋琢磨できて受験学力が高いとはとても言えない状態です。

学力のことをわざわざ受験学力と書いてきました。日本の教育は、本当は「人格の完成をめざす」ことを学校教育の目標にしています。この目標は、豊かな人間形成(=理知的な人間の育成)を目標にしているということです。しかし、こういうことは二の次で、受験学力のみが重要視され、この傾向は中学、高校に進むにつれてエスカレートしていきます。こういう意味の学力として、少人数の個別指導が実現できる小規模な複式の小学校では、学力が総じて高いということです。人格の完成を目指す教育という点で、田舎の少人数の複式校(複式校そのものはいいとは思いませんが)が、豊かな人間関係をつくる教育という点でも、まだ理想を追求できる位置にあるといえるかも知れません。

最後に一言。
競争教育というと、必ず引き合いに出されるのが、「徒競走で手をつないでゴールする」教育はおかしいという意見です。まことしやかに徒競走でも一番を決めないという傾向があるかのうようにいいます。そういう現実がものすごくあるかのような話です。
そんなことをしている学校が、はたしてどれだけあるのでしょう。ぼくの知っている現実は、小学校でも中学校でも、帽子の色で得点を競い合って、優勝を目指すという運動会です。スポーツは、ルールがあって得点を競い合うというものが多くて、そこにゲーム性があり、楽しみがあります。これは、否定されるべきものではないと思います。

でも、人間の人生は、スポーツの勝負とは全然違います。まず、共通のルールがない。競い合うという場合は、共通ルールが必要ですが、多様な人生、多様な社会には、競い合いを組織すべきルールの設定がそもそもむつかしいのではないでしょうか。それを、ごちゃ混ぜにして競争の中にたたき込んでいる異常さがあります。動物界でも弱肉強食のように見える側面もありますが、もっと視野を広げれば、多様性の中で共存し合っている関係の方がはるかに大きいでしょう。
人間社会も、助け合ったり支え合ったりして共存し合う側面の方がはるかに大きいと思います。社会の本当の姿を教えるのであれば、この共存しあい助け合うという人間関係をきちんと教えることが大事だと思います。
古い言葉で言えば、友情と連帯、団結です。
学問の世界に競争は馴染みません。大事なのは知的好奇心と人類の進歩への貢献、地球というかけがえのない環境との共存でしょう。これが本当の学問を推進する力です。それを試験の点数で競わせていること自体、学問の意味を極端にせばめているのではないでしょうか。

人間の豊かな可能性に対する信頼をもとに、人間同士が深く交流しその中から豊かなものを生み出して行くという確信。こういう確信にもとづく教育がつくられれば、日本の豊かな発展の土台となるように思うのですが、いかがでしょうか。


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Posted by 東芝 弘明