なぜ不登校が増えるのか?
不登校の子どもが増えている。原因は一様ではないが、ストレスが蓄積してきた結果、ある日を境に学校に行けない状態になるということもある。もちろん、具体的な原因をきっかけに不登校になるケースもある。前者の場合、原因を追求しても答えは見いだせない。
学校は、戦後、ある時期まで子どもにとって居場所だった。友だちが多かった時代がある。同級生はみんな友だちという感覚があった。今の小・中・高生の中には、友だちの人数が極端に少ない子どもがいる。なぜ、友だちが極端に少ないのか。もしくはどうして友だちが極端に少なくなってきたのかを探究する必要がある。
子どもが成育していく環境が大きく変わってしまった。夫婦共働きが当たり前になり、地域での人的交流が極端に減少し、地域での住民の結びつきが希薄になった。これと歩調を合わせて、PTA活動や地域での子育ての仕組み、子ども会などの組織が壊れ始めた。これらの中で一番最初に壊れたのは子ども会だったかも知れない。小学校における放課後の姿を見ていても、多くの子ども放課後、学校の校庭で遊んでいた。一度家に帰って、自転車でもう一度学校に来る子どもも多かった。子どもが、子ども集団の中で遊びを通じて形成する人間関係が希薄になった。
失われたのは、子どものゆりかごなのかも知れない。遊びを通じて社会や社会的人間関係について学び、その中で子どもは豊かに育っていたのではないだろうか。こういう環境は、子どもにとって温かく自分たちを包み込んでくれるゆりかごだった。どんな方向に揺れても、最後は親や教師の見守りの中で、人間的な間違いは正されていた。親の知らないところで子どもは、危険な目に遭ったり、人間的に誤りを犯したりもしたが、子ども自身のかなり大きな人間集団の中で、誤りは子ども自身の人間関係の問題として解決されていた。
子どものゆりかごが子どもの環境からなくなり、代わりに出現したのは、習い事や塾だった。労働時間と習い事の時間が重なるので、習い事は子どもの安全な居場所になっている。習い事という空間の中で子どもの安全性は確保されているが、それは学校生活における放課後の校庭で遊びほうけるゆりかごの代わりにはならない。
学童保育が居場所になっている子どもたちの状況はどうだろう。ここでの生活が異年齢集団の形成と自由な子ども同士の人間的関係を作っているだろうか。
人間関係の希薄な子どもが、学校で受けるストレスは大きいのではないだろうか。昔の子どもが学校に来なかった一番の理由は、家業だった。家の仕事を手伝う必要があるので、学校には行けないということが多かった。その時代の先生は、子どもを学校に来させて下さいと言っていたが、学校に来れば、子どもが家業から解放され、友だちに会えることを先生方は深く理解していた。
今、学校は、子どもたちの生活の場、友だちに会って楽しめる場になっているだろうか。学校が子どもを排除していなかった時代は、勉強をするために学校にも行っていたが、学校はそれよりもまず友だちに会って遊べる場だった。勉強よりも比重は友だちにあったという子どもも多かったのではないだろうか。
放課後、自由に遊べる校庭がゆりかごだったとすれば、学校そのものは、子どもたちを招き入れる劇場のようなものだった。行ったら楽しいことが待っている場所。それが学校だった。
教職員は、一生懸命授業を行っている。教えることに余裕がない。日本の教育は人格の完成をめざすことが教育の目標になっている国なので、以前は教科を通じて人間の生きる道を学んでいた。教科の中で道徳的な精神を自然な形で学べるようになるには、教えている教科に余裕が必要になる。国語で作家のことを学んだら、この作家がどういう人間でどういう時代に生きて、何を求めていた人なのかを学べたら、国語を通じて人間の生きた姿を学べることにつながる。
全ての学問は人間によって営まれてきたので、それら人間の業績を学べば、その人が生きた時代背景や時代そのものも学べる。教科に余裕があれば、そういう所にも視野を伸ばせば、多くの教科はつながりあう。
授業が教えることに一杯一杯で、何の余裕もなかったら、学びながら視野広く考えるということができなくなる。人間の脳は、情報を伝達するためにシナプスを伸ばしてつながりあうのに、教科を通じて教科から伸びているはずのシナプスを伸ばさないままでは、知識はバラバラなまま、子どもにとっては脅威となってのしかかってくる。
人間関係の希薄ななか、学ぶことのプレッシャーばかりを押しつけられる学校という存在は、子どもにとって大きなストレスではないだろうか。
なぜ不登校が増えているのかを、視野広く捉え直して、学校のあり方を考え直すことが問われている。学校が子どもたちを苦しめる存在として機能している不幸は、教育とは何かの問い直しの中で、根本的な見直しを迫られている。
俺は学校に行きたくない子供は無理に行かなくてもいいと思います。不登校でいいと思います。それを無理に行かせようとすると、自殺するかもしれません。死ぬぐらいなら引き籠りの方がいいですね。死んでは何にもなりません。
そういう子供の緊急避難先としての装置が必要です。それをするのが行政の役目です。例えば、学校図書館とか町立図書館などはどうでしょうか。図書館機能を強化してその仲間との関係を創り上げるのも1つの手でしょう。そこで自由に何でもやらせるのです。別に教室の中でやる勉強だけが知的探求の場ではありません。それと、坊主でも神父でも牧師でもいいですがそういう宗教施設の場も子供の緊急避難先としての機能を有すると思います。勿論新興宗教に「統一教会」とか、「エホバの証人」とか遣ってはいけないものもありますから、そこは親がストップをかけなければいけません。然し、3大宗教の中には知的好奇心を満たすものもあるので緊急避難先としての機能を満たすものがあると思います。
知の探究は学校だけではないし、人間どうしの関係性も学校だけではないという事です。
不登校の子供の中には天才が居るかもしれません。型に嵌めてはいけません。アインシュタインも小学生の頃、落ちこぼれで小学生を落第しております。それでいいのだと思います。天才かも知れない不登校の子供が何時か花開く事があるかもしれません。無理矢理学校に行かせて死なせてしまっては元も子もありません。命を懸けて行かせる場所ではありませんよ、学校という所は。
勿論、図書館機能を高めるとは、司書の能力も問われる訳ですし、宗教にしても其処の責任者の資質も問われる訳です。
後、外部に頭脳を持つ事も大事です。というのは自分1人では学ぶ事には限界がありますので、此の事は此の人に訊けば分かる、という事も大事です。するとその専門分野の人が
「だったら、此の本を読みなさい」
とアドバイスして呉れます。そういう仲間を増やす事も図書館の司書であったり、図書館通いをする仲間であったりする訳ですし、宗教家の先生だったりする訳で、そういう外部頭脳を持つ事も大事です。こうやって、学校主義から不登校の子供を救済する訳です。そして付け加えるならば、議論する場の「喫茶室」と、空腹を満たす「食堂」も必要ですね。
外部頭脳を持つ、とはどういう事かと言うと、例えばハイデガーの「存在と時間」の話になると、ハイデガーの批判本があるから読め、と教えて呉れる人がいる訳です。
ハンナ・アーレント(1906~75)
他者をすべて「世人」とみなして、「独りぼっち」を理想の生き方であるとしたことが、ハイデガーが全体主義に招き寄せられる1因となったと分析。
ハンス・ヨナス(1903~93)
ハイデガーの「決意性」の概念における落とし穴を指摘して、重要なのは「何を決意すべきか」という点にあると主張。
など、これは俺が見つけて来た本ではなく、俺の知り合いの哲学者が紹介して呉れたNHKテキスト100分de名著の「存在と時間 ハイデガー」という本が545円で本屋に売っているから読め、という事だったので今から読む事になった訳である。
この様にして、此の分野であれば此の人、此の分野であれば此の人という様に外部頭脳を持つ事が大事になるのである。
因みに俺のブレーンの1人が何を隠そう、東芝さんなのである。俺のブレーンなどと失敬な言い方であるが。
waoさんの役に少しでも立っているのは、光栄ですが恐縮です。アメリカでは図書館は、人間の第2の脳という位置づけです。そこからどうやって必要な情報を引き出せるか、という点で司書が重要な役割を果たします。
日本の学校も、上から教え込むのではなしに、教員を5倍ないし6倍増やして、子どもの学びたいことを伸ばすようにすれば、もっと子どもは、背中に羽を生やして生き生き、そこら中を飛び回るようになると思います。
今日も休みだったからか、朝NHKラジオで「子ども科学電話相談」をやっていました。この番組はなかなか面白い。小学2年生の子どもが質問してくることも多いですね。2年生の子どもはなかなかかわいい。今日の質問では、犬や猫は白黒の世界を見ていて、人間はカラーの世界を見ているということを聞いた2年生の子が、どうして犬や猫は、色が見えないんですかという意味の質問をしていました。
科学者が子どもに一生懸命、ときには四苦八苦しながら質問に答えています。今回も細胞って分かるかな?と問いかけて、「分かりません」と言われたので、先生は「そうか、分からないか」と言いつつ、「目の中には色を見分ける小さな場所があるんだよね」、と話しかけていました。この中で、総天然色(光の三原色)を認識できるのは、哺乳類の中では人間と猿だけだという話と、犬や猫は、青色や緑や黄色は認識できているようだという話もしていました。
ぼくはラジオを聞きながら、そうなんだと驚きました。「子ども科学電話相談」を聞いていると、知らないことが結構あるのと、専門家が一生懸命説明する姿が、どことなくユーモラスなので面白いです。ここに電話してきた子どもは、この体験を忘れないだろうなと思います。1人5分もないかも知れませんが、すごく貴重な時間になっていると思います。
学校が、子どもの疑問に一生懸命答えながら学習を組織していったら、おそらくもっと天才的な子どもが出てくるだろうなと思っています。子どもは小さい頃から「何で、何で、どうして」という好奇心を一杯もった存在だと思います。この子どものもつ好奇心が、学ぶことにつながれば、勉強は強いて勉めるものから、楽しく学べるものに転化すると思います。
大人は、子どもの好奇心の芽をどんどん摘み取って、小学校を卒業するときには、すっかり勉強の嫌いな子どもたちを大量に作り出しています。大人は、学校と家庭で一生懸命、気づかないうちに、子どもたちの好奇心の芽を摘み取っています。
学校に行きたいと思っても、皮膚感覚的に学校を拒否し、気持ちがついて行けないというのは、極めて深刻です。学校に行くのが耐えられないというような臭い息をかけているような側面が、学校にはあると思います。
中学生以降、学校の校則が生徒を破壊している面は、大人が考えている以上にかなり大きいと思っています。
校則というのも困ったものですね。無い方がいいに決まっている。髪を伸ばそうがスキンヘッドにしようが本人の勝手ですね。モヒカン刈りでもいい。服もルバシカでいい。靴は草履でもいい。
図書館ですが、東芝さんの仰る通り、図書館は人間の第2の脳ですね。その空間は人間の脳と一緒でシナプスが飛びまくっているのです。そこは自遊空間で、本だけではなく、音楽をやってもいいし、絵を描いてもいい。音楽の場合は音が外に漏れないようにするだとか、絵は油絵を描く場合は部屋が汚れてもいい様にするだとか、兎に角学校よりも図書館の方がレベルが高いという風にするべきです。司書の方と親しくならなければなりません。あと仲間をつくるべきですね。図書館内で小説を書く同人誌を発行するだとかすればお金の心配なく小説が書ける環境を創ってあげればいいと思います。俺も同人誌に所属していた事があり、小説を書いていたんですが、会費月5000円取られて参りました。然し、図書館で同人誌を発行すれば金をかけずに小説が書ける訳です。その小説の評論もしてくれる人物が図書館にいればいい訳です。文系だけではなく、科学も勉強出来ればいいですね。何故、宇宙は存在するのか? 宇宙膨張論を勉強したら、では膨張してゆくその先の空間が在る筈だが、それは何か? 素粒子のクォークは分割できないのか? 人間は猿から進化したというのは本当か? 違うのではないか。「種の起源」は本当か? 探っていくと「棲み分け理論」があるじゃないか、とか、神は本当にいるのか、死んだら無になるのか? 無とは何か、魂はどうなっているのか? そもそも人間とは何か、知的好奇心は全部図書館で満たされる、という風になったらいいですね。あと視聴覚センターも設置するべきです。アーカイブスとしての映画、ネイティブスピーカーによる外国語の習得絵画の展示、絵画の書籍、などなど、予算が必要ですが、行政と議員に頑張って貰いたい。不登校の子供の中にひょっとしたら天才がいるかも知れないのにほったらかして置くのはもったいない。あと、図書館にはイジメがありませんので環境的にも非常にいいのです。学校に行かずに図書館に行くという選択肢を子供には与えるべきですね。学校には授業を受けなくても図書室にいればいいよ、という自由も与えるべきですね。
いいですね。賛成です。
その通りだと思います。