子どもの世界に何がおこっているのか

教育

前衛の11月号に中西新太郎氏の論文「いま子どもの世界に何がおこっているのか」が掲載されている。この論文に書かれている内容は、ぼくにとっては衝撃的だった。ぼくは、子どもの世界を考えるときに、自分の子ども時代を思い出しながら、考えるような傾向があった。しかし、このような子どもの見方では、子どもの世界を見誤ってしまうという感想をもった。
子どもが変わったのではない。子どもの本質は変わらないと思う。変わったのは子どもをとりまいている環境だ。環境は社会的に形成された文化だと言い替えてもいい。
日本の教育は、徹底的な競争の中にある。小学校時代からの塾通い、高校受験の難しさ、大学受験の激しさと就職活動の厳しさなどが、過度な競争を子どもに押しつけている。さらに近年は、この傾向に加えてより一層競争を組織する仕組みが次々に具体化されつつある。

和歌山県のことを少し紹介したい。
和歌山県は、高校を全県一区の学区制度、つまり学区制を撤廃した。この仕組みを導入しただけで競争は激化している。地元の高校に入学することが難しくなり、子どもたちは、さまざまな学校に入るために昔以上に努力させられている。さらに和歌山県は、学校を複線化するという戦略の下で中高一貫の県立学校を作るに至った。こういう区別は、当然のこととして競争を激化させている。学校間格差はさらに大きくなっている。競争を組織して人気と実力のない学校は廃校にするとでもいうように。
伊都・橋本地方には、県立の古佐田丘中学校が作られた。これによって、中学校受験が現実のものとなった。まことか嘘かわからないが、古佐田丘中学校に入学するためには、3年生から学習塾に行かすべきだという話がある。
現実の問題として、古佐田丘中学校を受験した子どもの中で合格できなかった子どもたちが生まれている。義務教育に競争を導入した和歌山県教育委員会の罪は深いといわなければならない。

高校の学区制撤廃と特別の中高一貫校について県教育委員会は、競争の組織化が目的ではないというだろう。しかし、それは現実を全く見ない観念論になっている。
徹底的な競争の組織化は、教員の給料格差の導入、学校評価制度の導入、関心、意欲、態度のチェックなどによっても組織されている。すべてを数値化して図ればいいというようなことが、学校現場で行われている。
学校評価制度では、学校で行われいる球技大会や運動会までチェックポイントを作り数値に換算して報告を求めている。こんなやり方は、極端にナンセンスなので、学校によっては管理職の段階の仕事にしているところもあるが、この数値化してチェックし評価するというのは、教育委員会から下ろされている方針なので、教職員をこの仕事に駆り立てているところもあるかも知れない。

産業界では、プランを立て(P)、実行し(D)、チェックし(C)、改善を図る(A)というサイクルが提唱され、実行されているが、これは教育現場にも持ち込まれている。人間は、らせん階段を登ったり降りたり、立ち止まったりしながら、行きつ戻りつして成長するものだろう。PDCAサイクルのように一直線に人間を育てることはできない。商品の製造過程や品質管理と教育とは全く違う。このようなものの見方による教育方針は、子どもの実態に全く合わない。

新自由主義的な経済政策が、採用され実行されてきた結果、日本の社会には、資本主義的な矛盾が激化して、格差と貧困が増大している。若者の就職難、国民の生活苦の増大は、確実に貧困化問題を拡大し、私たちの生活を深く破壊し蝕んでいる。多くの教育困難の根底には貧困がまとわりついている。家庭や子どもの抱えている問題の根本には貧困問題があることが多い。しかもこの傾向は年々増えている。

教師は、給料のいい職業になっている。しかし、教師そのものは、24時間という1日の中で自分の時間を多く奪われている。教師の多忙化は、教師の貧困化に他ならないとぼくは思っている。
人間は、自由な時間を確保してはじめて発達できる。大学の教育課程は、教師になるための単位取得が中心であり、教育実習は2週間程度しかない。この仕組みのもとでは、新人教師は教育実践豊かな教師として現場に立てない。日本の教師は、現場に立つことによって、教師として成長しはじめる。教育実践に悪戦苦闘しながら先輩教師の方々との信頼関係の中で、子どもについての見方を学び、徐々に豊かさを身につける。しかし、いまの現実は、学校現場にあった豊かな教師集団を破壊している。

何が豊かな人間関係を壊したのか。
それは、自由な時間を破壊し続けている多忙化に他ならない。もちろん先に書いたように多忙化させている労働の内容にも深刻な問題があるが、それ以上に教師から自由な時間を奪うことが、教師の貧困化の最大の要因になっている。1日は24時間しかない。この24時間のうち、8時間は睡眠にあてられたとして、残り16時間、労働時間が長くなればなるほど、人間は多面的に発展する可能性を破壊される。貧困は、賃金だけの問題ではない。自由な時間を確保できないのは、貧困以外の何ものでもない。
教師が教師として成長するためには、自由な時間を確保する必要がある。自由な時間があってこそ、精神的な自由を確保でき、深くものごとを考えられるようになる。多面的な文化やスポーツに触れることができるようになり、豊かな人間性を獲得できる。学校現場で起こった問題についても、その問題を自由に考えることのできる余裕があってこそ、教師は成長できる。

教育委員会が、教師を徹底的に管理するために仕事を増やした目的は、教師集団を破壊して、教育委員会に対して従順な教師をつくることにあった。命令に従順に従う教師を作らなければ、上からの「改革」はできない。改革の1つの目的は、徹底的な競争の組織だったが、団結力の強い教師集団のままでは、教育委員会による方針の徹底はできなかった。教師を多忙化させることによって、教師の管理と支配はより一層強められた。その結果、教育現場の困難は一層増大した。教育委員会は、目的意識を持って教師が子どもに関わる時間を奪ったのだ。

日本社会全体、教育現場、子どもへの受験競争の組織化、こういうものが、子どもの環境を激変させてきた。社会のさまざまな問題は、直接家庭に影響している。リストラ、首切り、単身赴任、家庭破壊、離婚などなど。これが子どもの生きている現実になっている。

前衛の11月号の中西氏の論文に触れておこう。
複雑な日本社会と学校という現実が、子ども同士の人間関係に深い影響を与えている。以前、同質性の文化について書いたことがある。競争と同質性を求める学校の文化は互いに併存している。競争を徹底的に組織することによって、個性重視の教育でさえ競争になっている。特色のある学校づくりも競争になっている。競争が何重にも組織されている。
中西氏の論文では、子どもの中にある同質性を求める文化については、「共感動員」という言葉で語られている。グループの中で「共感」を示さないと仲間はずれにされる傾向があり、子どもは子ども同士の人間関係に極めて敏感になっている。たとえば、氏は「『私はあなたの言っていることに反対だ。おかしいと思う。あなたの趣味には興味がない』というような友だち関係は許されない、それでは互いに認め合うことにはならない」と書いている。
そんなことをいうヤツは空気が読めないとなる。子どもたちは、全力を振り絞って共感を動員しているのだ。
「90年代の後半、調査で、友だち同士の人間関係が、ストレスの重要な中身になっている」と氏は指摘している。
こうも書いている。「深刻で、真面目な話と冗談のような話の境界線が、長い間に変わってきたことがあります」
「自分が何かを主張する文章を書くときには、とりあえず『(笑)』をくっつける。自分が思っていることを伝えたいのなら『(笑)』をつけた方が無難なのです。『私が思っていることをそんなに重く見なくていいですよ』という姿をみせておかないと、自分が思っていることをそのまま出せないようなコミュニケーションの回路が文化的につくられているのです」
氏は、終わりに近いところで子どもたちは、「よくぞこんな社会のなかで、お互いに傷つけあうことなく、関係をつくっている」と書いている。──この下りを読んだときには、何だか泣きそうになった。

この短い論文をぼく以外の人にも読んでいただきたいと心底思った。氏の考え方を知ってもらいたいというよりも、読んでいただいて、感想を聞かせて欲しい。この論文を読んだ大人が、ここから何を感じ取るのか交流したい。──こう思ったのだ。文章を読んでこのような気持ちになるのは少ない。この論文の衝撃は消えない。

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Posted by 東芝 弘明