父は中国戦線の斥候だった

雑感

ぼくの父親は、ぼくが小学校1年の6月に亡くなりました。1966年の6月です。満46歳。ぼくは父親が40歳の時に生まれた息子だったということです。終戦の時の父親の年齢は25歳。何度か招集され中国戦線にいたようです。
気性の激しい人でした。ぼくは子どもだったので父の人生がどのようなものだったのか、ほとんど知らないまま今に至っています。
ぼくには、14歳上の従兄がいます。この従兄は、父親の兄弟の長男の子どもです。従兄の父は、海軍の兵士として戦死しています。従兄は、ぼくの家に引き取られて兄弟のように育てられました。ぼくたちが聞けなかった話を従兄は、父から色々聞いていたようです。いつか機会があれば、じっくり話を聞きたいと思い始めています。

父は、戦場では斥候(敵状・地形等の状況を偵察・捜索させるため、部隊から派遣する少数の兵士。「―を出す」:広辞苑第6版)という任務を負っていたようです。戦場の最前線で相手の動きを偵察するために行く少数の集団の一人でしたから、たえず極限状態と緊張の中にいたようです。
従兄は、この前、ぼくにこう言いました。
「上官に休暇を願い出て、許可が下りなかったことに腹を立てて、機関銃を撃った。斥候やったから偵察に行って中国人の女、子どもも何人も殺したっていうとった」

父は、ものすごい酒飲みで暴力的な人でした。気に入らないと茶碗を投げつけ、母はよく叩かれていました。ぼくたち兄弟は、部屋の隅で小さくなって震えていました。母は、夜中に泣きながら着替えを出して、身の安全を守るために家から知人の家に逃げたこともありました。

父の気性の激しさは、戦争と深く結びついていたようです。酒に酔い、気分がいいときは軍歌を歌っていました。土方をしていたので、昼間、家にいるときは、雨が降っていました。しとしと降る雨と「麦と兵隊」を歌う父の姿ががぼくの記憶に残っています。

従兄は、戦後も父は「ヒロポン」という覚醒剤を隠し持っていたとも言っています。「ヒロポン」は軍でも使用されていたという記述があります。
「日本では太平洋戦争以前より製造されており、『除倦覺醒劑』として販売されていた。その名の通り、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的で、軍・民で使用されていた。現在でこそ覚醒剤の代名詞であるヒロポンだが、当時は副作用についてまだ知られていなかったため、規制が必要であるという考え方自体がなく、一種の強壮剤のような形で利用されていた。」(ウキペディア)
斥候と「ヒロポン」は切っても切れない関係だったのかも知れません。

従兄の話からすれば、父は斥候として戦場で中国人の民間人を殺した経験を持っていたということです。この事実は、衝撃でした。侵略戦争と加害責任を考えるとき、ぼく自身は、父の生きた姿を考えざるを得ないと思います。

母は、学校の教師として終戦を迎えています。勤評闘争によって組合員が激減したときにも、労働組合に留まり、日本共産党を支持した人でした。この母と父との組み合わせは、どこか背中合わせのような感じがあります。父が酒で体を壊さず、わが家に君臨していたら、母の人生もぼくたちの人生も大きく違っていたとも思います。

父は、戦後もずっと戦争を引きずって生きた人だったと思います。青春の最大の記憶が戦争であり、酒は戦争を思い起こさせるものだったと思います。従兄に中国戦線の体験を語ったと言うことは、父の記憶の中で中国人を殺害したことが忘れられない記憶として残っていたものだったのではないでしょうか。
父は、もしかしたら今風にいえば、戦場で体験したことが脳裏から離れないPTSDの状態だったのではないかとも思います。戦争の加害者になり、犠牲者にもなったのが、ぼくの父だったのかも知れません。

自民党の石破さんは、自衛隊を国防軍にしたときに、軍事裁判所で軍の規律を守るために、その国が定めた最高の刑罰(死刑なら死刑を、懲役300年なら300年をということです)を科すべきだと語りました。軍事裁判所の判定にはスピードが必要だという意味のことも語りました。戦場で兵士に対して逃げることを許さないためには、命令違反を処罰するための極刑が必要だということです。
軍事裁判所は、軍隊内の規律を扱うものだから民間人には関係がないということにはなりません。国民を裁く裁判所以外に軍人を裁く裁判所を作り、軍の規律として死刑を導入するという神経は、それ自体が今の日本には合わないでしょう。
日本の軍隊には、暴力が付き物でした。「上官の命令は朕の命令と思え」という背景には、軍の暴力的な規律があります。石破さんの発言は、国防軍を作り最高死刑という暴力によって軍の規律を確保するというものでしょう。
石破さんは、一般民間人による徴兵では役に立たないので徴兵制には反対というスタンスをとっています。ただし、韓国のように一定の期間、兵役義務を科して兵士としての訓練を行うというのはどうでしょうか。この点についての見解は定かではありませんが、「国家のために生命を懸けることができないような国家を、果たして国家と呼べるのか?」という発言をしたことのある人物なので、国民を統制することには、ためらいがない人だと思います。

石破さんの考え方だけで歴史は動きませんが、このような発言を行っても、マスコミが大々的に取り上げない時代に入っているので、国防軍、徴兵制、国家による国民の支配という流れを、許しがたいものとして受けとめることが必要だと思います。

父の様な戦争体験は、御国のために戦ったという美談ではありません。酒で体を壊し、入院し、退院したその日に浴びるように酒を飲んで死んでしまった父。ぼくの25歳の頃と父の25歳の頃の世界はまるで違ったものでした。
自民党は、戦争を体験しなかった世代によって動かされています。石破さんには、ぼくの父の様な位置にあった人がいるでしょうか。安倍さんにもぼくの父の様な体験を持った人がいるでしょうか。
大規模な戦争には、さまざまな位置があります。戦争を作戦として動かしていた人もいれば、戦場で死線を彷徨った人もいます。ぼくは、戦場の最先端にいた父の体験を踏まえて、今の憲法を守ることに努力をしたいと思います。

お昼ご飯を食べるときに、教育委員会の横に並べられている中学生の歴史教科書を1冊お借りして読みました。
日本の引き起こした日中戦争、太平洋戦争が、日本による侵略戦争であることが、鮮明に読み取れない記述になっています。ドイツとイタリアはファシズムの国なのに、日本はファシズムの国だとは書いていません。軍国主義というイメージも鮮明ではありません。中学生に歴史を伝えるという点で、日本の歴史教科書のいくつかは、歴史を修正するという流れの中に置かれ始めていることを感じさせるものになっていました。
戦後の記述はほとんどないのに、近代史と戦前・戦中の記述は詳しくなっています。ぼくたちの世代は、近・現代史をほとんど教わらなかった世代でした。しかし、今の歴史教科書は、江戸から明治へ、そして昭和へという時代の分量を増やしています。しかし、果たして本当に日本の歴史を正確に伝えるものになっているのかどうか。恐ろしい時代に入りつつあると思わざるを得ませんでした。

戦争反対。これが戦後のDNAです。戦争体験を知らない世代は、このDNAを出発として生きてきました。戦争を知らない世代が、憲法9条を守るという仕事を背負いつつあります。
「過去に目を閉ざすものは、未来に対して盲目になる」
この言葉は、歴史を修正する勢力に対しては警告になり、歴史を受け継ぐものには道しるべになります。負けてはなりません。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明