空気を読むな、本質をつかめ
空気を読むことについて、今までもいろいろ書いてきた。
空気を読むという場合、圧倒的な意味で使われているのは、場の空気を読むということだろう。
その場の雰囲気を察知して、まわりの雰囲気に合わせるというのが、場の空気を読むということだ。
しかし、空気を読む、という言葉には、場の空気を読むというだけではないと思われる。時代の空気を読んだり、社会の空気を読んだりするということもある。
自民党に身を寄せている人は、おそらく社会の空気を読むという生き方をしている人が多い。どのような事態になっても、自分の考えは内に秘めて、社会の流れに合わせるという生き方だ。
「東芝さん、私の立場からは大きな声で言えないんやけど」
というように町当局の方針に対し、意見がある場合でも、自分の意見は表に出さない人が多い。自分の意見を控えなければならないというのは、町や県や国の意向に逆らわないで、つき合っていけば何らかの恩恵にあずかることができるという嗅覚のようなものなのかも知れない。
空気を読むという意味の中には、時代の空気を読むというものもある。集団的自衛権行使が否定されていた時代は、「そうだ、そうだ」と言い、集団的自衛権行使容認ということになると、「そうだ、そうだ」と言う。体制には絶対に逆らわない。体制の許容範囲を見極めながら生きるという生き方。時代によって、物事の評価がひっくり返ったら、自分の発言もひっくり返す。そこに深い自覚はない。
保守系議員には、こういう方も多い。地方議会で集団的自衛権の行使容認の閣議決定を撤回すべきだという意見書が議論される時に、この動きが日本の戦争に直結していると考えれば、おいそれと行使容認に賛成できないはずだが、いとも簡単に賛成する議員も多い。
戦争か平和か、という選択肢で行使容認に賛成する議員もいれば、その一方で「自民党や首相がその方向だからとりあえず賛成」、「時代の流れだからとりあえず賛成」という議員も多い。戦争か平和かという問題で、地方自治体や地方議会が、どのような態度を取るのかが、極めて重要な意味をもつという歴史的な認識をもたないまま、体制に順応していくことに深い自覚がない、ということだ。
ぼくは、若い時に、このような生き方を選択しなかった。とくに「時流に流される」という生き方は取りたくなかった。反骨精神が強かったというのではない。貫きたかったのは、「自分が正しいと信じた道を歩く」、というものだった。
このような生き方にとって、最も大事になるのは、何が真実なのか、ということだった。真実を見極めるためには、学ぶということが不可欠になる。色々な物事に対して、疑問をもち、その疑問を一生懸命に解き明かそうとする。いろいろな物事を自己検証し、それを積みかさねると自分の中に知のネットワークのようなものができる。
「自分が正しいと信じた道を歩く」生き方にとって、大切なのは、地道にコツコツということだろう。性急に答を求めるような生き方をしていると、精神がやんでくる。「物事はこうでなければならない」と思い、この思いをつのらせて事態の変化を求めるような人は、いわゆる潔癖主義者であり、非常に幅の狭い生き方になる。「自分が正しいと信じた道を歩く」という生き方は、物事の本質を見極めつつ、ねばり強く改善を図っていくような生き方だということだ。
1つの物事を変えるために10年でも20年でも努力をするということと、「自分が正しいと信じた道を歩く」という生き方とは、密接不可分に絡まっている。
時代の空気も、社会の空気も、場の空気も神経質になって読み取ることよりも大切なのは、物事の本質を見極めるということだろう。
本質を見極めるためには、現象と本質との関連、現象と本質との関係を知る必要がある。
空気を読むというのは、まさに上っ面の現象面を読み解いて、上手に現象に合わすということだ。
そういう生き方をしていると、関心事が現象面に合わすことに集中してしまうので、物事の深い本質にはタッチできない。










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