小説の読み方、論文の読み方

雑感

寒い1日でしたね。気温の差が激しい季節に入りました。
次号の読者ニュースを作ったので、嫁さんに読んでもらいました。テーマは長期総合計画。このテーマについては、ほとんど知識のない人にとって、今までの経緯を概括した記事は、心に響かなかったようです。
自分の発見が第三者に伝わるかどうかは、かなり落差があります。むつかしいですね。
世の中には、自分の得意でない分野がたくさんあります。どんなに優しく書かれていても、書かれている概念と概念の関係が不確かな場合、なかなか飲み込めません。概念という難しいものではなく、人間と人間の関係でも、話に登場する人物の位置関係がはっきりしない場合は、話の筋が見えなくなります。

例えば、疑獄事件。人間関係と組織の関係が複雑に絡んできます。それをきちんと理解しないうちは、話がすっと入ってきません。動きを立体的、構造的につかんではじめて、物事の本室に迫った理解が得られます。

今回のかつらぎ町の基本計画にかかる歴史についての記事も同じようなものになりました。もっとたっぷり字数を使って、計画の内容にも触れて、変化を書き起こせば、第三者にも伝わりやすくなると思います。上下の2回に分けて、せいぜい1500字程度で概括したので、余計に伝わりにくくなりました。
第三者に伝えるというのは、どこまで行ってもむつかしいものです。

ただ、読み手でもある自分の観点から言えることがあります。一度読んで理解できないのは、読み手の理解力が劣っているだけではないということです。しっかり、深く認識するためには、書かれている文章を、読み返し、物事の関係性をしっかり把握する努力が必要だということです。
一度読んで理解できないからダメだと思っている人は案外多いと思います。深く物事を認識できる人は、 内容が理解できない場合は、文章を何度も読み返し、時には行きつ戻りつしたり、自分で図を書いたりして、把握する努力を積み重ねます。
このような努力が、年月を重ねていくと、大きな差になるのです。一度読んで、深く物事をとらえられる人は、訓練を重ねた結果として、そのような力を身につけるのです。
頭の良し悪しは、あると思いますが、天才的な人はごく少数いるだけであって、圧倒的多数の人は、そんなに差はないと思います。
本来は差がないのに、大きな差になって現れるのは、努力の違いによるものです。難解な文章にも挑戦して、本を痛めつけるぐらいに、線や書き込み、ノートなどを活用して、物事を把握する努力をすれば、道は開けます。

読書というイメージにつきまとっているのは、小説を読むような読み方でしょう。おそらく、小説を読む人で、本に線を引いたり、書き込んだりして、その小説を分析的に読んでいる人は、少ないと思います。イメージや情景を伝え、人間の感情の動きを伝える小説を分析しながら読みたい人は、ほとんどいないと思います。
学校教育に存在している読書感想文は、小説を主な対象にしていますが、普段読まないような読み方を強いて、感じたものを書かせるものなので、あまり良い宿題だとは思いません。しっかり読書感想文を書きたいのであれば、小説に線を引き、本に折り目をつけ、書き込みをしていけばいいのです。でもこういう作業は、文芸評論家の仕事と同じものであって、小説を読む楽しみからは離れると思います。
学校が、読書感想文を好んで宿題に出すのは、読解力授業に日本の国語が、最大の比重を置いてきた反映なのかも知れません。中学校では、まさに小説を論文のように分析しながら読むという授業をしています。これには、どうも違和感を覚えます。幅が狭いと思うのは、ぼくだけでしょうか。小説も評論も、同じように文章から意味を読み取らせてきた国語教育のあり方が、読書感想文に結実していると言えるでしょう。

読書というと、線も引かず、一度読んでおしまいというイメージが強いのは、読書=小説というイメージが強いからだと思います。しかし、評論や論文は、淡々と本を読むという読み方では、深い認識が得られません。評論や論文は、行きつ戻りつしながら、線を引き、ときには反論や共感の書き込みを行ったり、自分なりの整理を試みたりして、読み込む必要があります。
中3の娘に話を聞いていると、今教えてくれている先生は、教科書に載っている文章の段落に番号を振ったり、線を引かせたりしているようです。これをさらに積極的にできるようになれば、評論や論文の理解は格段に進むでしょう。読んでも理解できないという人がいるとすれば、それは、学びの入口で立ち止まっている人だと言えると思います。

読者ニュースの記事の分かりにくさから、論考が横道にそれ、一人歩きしてしまいました。
「結局あなたの文章が分かりにくいだけなんですよ」
散々書いたあげく、本当のところは、ここに問題があるというだけの話のような気もします。自信がないのには、明確な理由があります(自信がないことに自信があるのは変ですが)。自分の書く文章は、たくさんある自分の主観の中の一部分が文章という形になっているところに問題があります。自分の書いた文章を、時間をおかないまま読むと、文章化されていない主観で文章を補ってしまうからです。これがなかなか厄介です。


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雑感

Posted by 東芝 弘明