反対討論で考えたこと

雑感

午前中、自宅の掃除をして、午後事務所で反対討論を書いた。宮井さんと少し話をして書く内容を決めた。具体的な施策としては、賛成できることが多かった。中阪町長は、基本的には住民の幸福に繋がる施策をしたいと思っているので、こういう形になるのは当然だった。反対した基軸を行政に対するものの見方考え方に据えた。行政の仕事として生涯学習課の課長として海南市で仕事をしていた関係で「新しい公共」という考え方が、行政運営の基本に坐っていると思われる。しかし「新しい公共」については、少し国民主権の観点から吟味が必要だと思ってきた。ただし、日本共産党中央委員会の文献には、「新しい公共」に対する批判は見当たらない。これは、国の運営とは直接linkしないからだろう。「新しい公共」という考え方は、地方自治体にかかわる概念であり、党中央の政策の中に「新しい公共」への言及がないのは、党中央が主に国政問題を担当しているからだろう。

「新しい公共」は、行政だけが公共を担うのではなく、市民や企業等が公共の担い手となり「支え合いと活気がある社会」をつくるというものだ。吟味しなければならないのは、企業の位置づけだ。企業は、営利を目的とした組織で法人格を有しているが、ここには主権がない。これは当たり前のことだ。国にしても地方自治体にしても、運営の基本は国民主権にある。「新しい公共」という概念の危うさは、住民と企業やその他の団体を並列に扱って、いっしょにまちを作ろうという考え方にある。「新しい公共」の考え方には、国民主権という概念がない。あったとしても極めて弱い。企業と自治体との関わり方を国民主権との観点で整理しないと、資本力をもった企業の利潤追求に行政が流されてしまうことになる。独占資本の強い地域では、今でも企業城下町のような傾向があり、企業による自治体の支配という傾向をもつ地域がある。これは古典的な大企業による地域支配の形だ。原発立地の地方自治体もその中に入る。こういう地域に対して、「新しい公共」は何か新しいものを生み出す力になるだろうか。

日本の企業が社会貢献として寄附を意識しはじめたのは1980年代だという。アメリカに進出した企業がこの課題に直面したからだ。歴史はまだ浅い。ただし、日本の企業はトヨタをトップとして、海外では多額の寄付を行っている。これは、海外進出した企業が、社会貢献を通じてそれぞれの国に溶け込む必要があったからだろう。本国日本での寄附の少なさは、日本国においては企業が寄附を出す習慣が極めて薄いからだと思われる。

日本国内でも企業による社会貢献としての寄附は増えている。しかし、議論の仕方やお金の出し方には、課題があると思われる。「新しい公共」を推進する場合、こういう日本の企業の状況をふまえた上で、国民主権を原点に据えて企業への寄附や参加を求めるべきだろう。この基本が曖昧になったら、企業の参加の仕方も歪むと思われる。

ニューヨークには、200を超える図書館があり、運営経費はすべて寄附によってまかなわれており、寄附の多くは企業から得ている。ニューヨークの図書館サービスは、全て無料で貸し出すものには、絵画や農機具に至る。失業者に対して無料のキャリアアップ講座が開かれている。映画にもなっているが、失業者が図書館で学び、自律して仕事につき、成功した例は現実として存在している。図書館運営には自由が獲得されている。企業は一切運営に口を挟まない。図書館にとって、最も重要なのは活動上の自由であり、集める資料の自由、その資料の公開の自由が貫かれている。このニューヨークの図書館と日本企業の関係が、現在改善されているかどうかにも興味がある。できれば、昔と違って日本企業からも寄附が寄せられていることを願いたい。

地方自治体がまちづくりの基本に据えなければならないのは、国民主権と住民主権だ。さらにこの根底には、個人の尊厳の尊重をすれなければならない。個人の尊厳の尊重と国民の基本的人権の尊重の根底にあるのは、自分の基本的人権の尊重は、他人の基本的人権と対等平等の関係にあるという点にある。権利と権利の対立は、「公共の福祉に反しない限り」という点で調整が図られる。憲法のいう「公共の福祉」の「公共」は、自治体を意味しない。それは相互尊重を意味する。

「権利ばかり主張して義務を果たしていない」という言い方がよく行われるが、そもそも権利と義務はコインの裏表の関係にはない。この言い方そのものが間違っている。自分の権利ばかりを主張する人に多いのは、相手の権利の尊重をすっかり忘れているということだ。権利の相互尊重という精神が生きていれば、自己の権利のみを主張するということは少なくなる。結局権利ばかり主張すると思われている傾向は、権利というものの内容を正しく学んでいないことに尽きると思われる。人間の尊厳を相互に守り、互いの権利を認め合うことを基礎においた教育が行われていれば、かなり事態は変わると思われる。

権利と義務の関係を見てみよう。
憲法の規定で言えば、権利の方が多くて義務は少ない。日本国憲法に義務は3つしか規定されていない。それは、憲法というのが国民の権利を宣言して、国家権力の手を縛るものだからだ。この憲法に基礎をおく法律は、国による国民への法的な規範の「押しつけ」なので、法律は国民の義務を具体的に規定したものが多い。この憲法と法律の関係によって、国民の権利と義務が成り立っている。法律の是非が問われるときは、憲法にまでさかのぼることがあるのは、憲法が最高法規だからだ。この憲法に照らして法律の規制が憲法に違反しているかどうか。ここが争われる。

個人の尊厳の尊重と国民主権を貫いて自治体運営を行う中で住民自治と団体自治の結合を推進し、行政と住民との協働をすすめることを求めてきた。この原則を貫く中で「新しい公共」という概念を再吟味してほしいという思いを反対討論には込めた。短い言葉での言及だったので伝わったかどうかは、かなり心許なかった。

民間活力の導入も、この原則が貫かれるかどうかが大切になる。今後この運営がどのような形になってくるのか。この視点が大事になってくると思われる。

あと強調したのは、国の政治の本質をどう見極めるのかということだ。国の政治を国民主権の視点で見極めないと、地方自治体の行政運営は歪んでしまうことを訴えた。新自由主義的な諸政策は、大企業の利益優先を基本に組み立てられている。そうなると行政の施策は歪まざるを得ない。1970年代の終わり頃から本格化した新自由主義は、40年の歴史をもつに至っているが、この40年間は、資本の側からの「上からの階級闘争」だった。大企業の利益をいかに最優先するかを貫いてきた中で、消費税が導入され、税率を引き上げるごとに法人全減税が行われ、さらに大金持ち減税が加えられた。その結果、消費税収を上回る法人税減税と所得税減税が行われ、「直間比率」が見直され、日本は税収の伸びない国になった。庶民増税によって国民生活が苦しくなり、大企業の側に富が蓄積し、国民の側に格差と貧困が広がった。消費税を読み解けば、日本国が1989年以降どんな政治を行ってきたかが見えてくる。

日本政府は、「公共」」として公平な行政運営をしていない。一部の人々の利益を守るために行政を運営してきた中で私物化が露わになってきた。NTTによる接待で歪められたのは、DoCoMoの完全子会社だった。光ファイバー網の75%をNTTがもっており、NTTがDoCoMoを完全子会社するとDoCoMoは他の通信会社と比べ、破格に大きな独占体となって有利な立場に立てる。携帯電話の料金引き下げというスローガンのもと、菅政権が推し進めたのは、DoCoMoは完全に子会社化しないという政府自身の方針の180度にいたる転換だった。「既得権益の打破」で実現したのは、さらに大規模な「既得権益」の確保と癒着だった。
醜い。極めて醜悪な実態が暴露されつつある。

こういう日本政府が打ち出す政策や施策に対し、無批判に追随すべきではない。地方自治体は、住民主権の精神で国の施策を分析し、したたかに、柔軟に対応することが求められる。この課題は極めて難しいが、国や県の施策とどう向き合うかというテーマは、地方自治体の運営の中心をなすものだ。ここに課題があるとぼくは感じている。

雨が激しく降っていた。2つ目の討論を書き終えて車に乗り込むときには、小雨に変わっていた。春の雨だった。


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雑感

Posted by 東芝 弘明