教師と学問

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急に暑くなった。日中、車で走るときにはクーラーを入れた。
昨日、小学校の卒業式から帰るときに、話しかけられたので会話になった。
話は、先生のことだった。
子どもと児童の信頼関係は、非常に微妙な問題があってむつかしい。
子どもは、教師の動きを敏感に読み取っている。先生に話しかけたらきちんと答えてくれたとか、自分の気持ちをくみ取ってくれたというような体験が重なっていくと、担任教師への信頼関係が強まってくるようだ。
小さい子どもたちは、自分の言いたいことをなかなか言葉で表現することが難しい。
「話してごらん」と言っても、すらすら会話ができるとは限らない(中学生になっても同じことがいえるかも知れないが、心と体が大きくなった分、より複雑な場合もあるだろう。小学生の時のように素直に話すとは限らないし)。
一人一人の子どもの気持ちにより添うことはものすごく難しい。教師は、子どもたちの気持ちをくみ取れるアンテナを持つべきだし、バケツのように子どもの気持ちを受けとめることのできる深さと広さがいるだろう。感じ取る心が豊かに育っていない教師は、子どもと心を一つにすることは難しい。
学級の子どもたちの人数が多くなってくると、どうしても一人一人の気持ちをくみ取ることが難しくなる。
子どもには子どもの世界があり、そこには友だちとの人間関係がある。家庭の人間関係を背負って苦しんでいる子どももいる。
大人でも、自分の置かれた状態を正確に把握できない場合がある。正確に把握し、対応できているのであれば、うつ病はもっと少なくなるだろう。大丈夫だと思っても、体と精神が拒否反応を起こし、自律神経がおかしくなったり、うつ状態になったりするのだから。
日本の教員養成をおこなっているのは大学だ。教員免許は、大学の教育課程で必要な単位を修得すれば、与えられる。教壇に立って教えることについて、真剣に学ぶのは、おそらく教育実習だろう。しかし、教育実習の期間は短い。結局、教員は教師に採用されてから、教壇に立ちながら教員としての訓練を受けていくのだ。議員が議員になってから、はじめて議会のことを学び議員としてのスキルを身につけるように、教員は教師になって、次第に「教える」ことの難しさに直面するのだ。
本来なら発達心理学や、授業の仕方についてノウハウも考え方も深く学んでから教壇に立つというシステムが必要だろう。日本は、どうも習うより慣れろというような傾向が非常に強い。きちんと学ばせてくれるのは、お医者さんや看護師、弁護士や裁判官、検察官になる方々、理容師などなど、手に必要な技術を身につけないと仕事ができない分野だろう。
本来なら教員養成期間も、お医者さんと同じような訓練期間をへて社会に出てくるというようなシステムが必要だと思う。
フィンランドでは、教員は大学院を出なければなれないみたいだ。人間が人間に対して教えるというとき、どうすれば人間は認識を獲得し、成長していくのか、どのように子どもたちに働きかけるべきなのか、こういう実践的な訓練が必要だろう。
小学校の先生を見ていると、感心することがものすごく多い。子どもたちの心を瞬時にとらえて、授業に惹きつける力をもった人がいる。そういう人に出会うと、教師としての職業のすごさを感じる。
そういうことができるのは、おそらく本質的にはテクニックではなく、教師と児童の信頼関係があるからだろう。どうすれば、子どもの変化を見抜けるのか、子どもの気持ちをくみ取れるのか、人間はどのようなプロセスを経て成長していくのか。深く理解している方々に出会い話を聞いていると楽しくなる。
教師の方々は、教壇に立って子どもたちと日々深く関わりながら、教育実践をおこない、また先輩教師の方々に悩みを相談したりアドバイスを受けたり、学習サークルの中で学んだりして身につけて来たのだと思う。
人間が人間に教えるというのは、歴史的な成果を橋渡しし、さらに人類の発展をうながすという行為に他ならない。次の時代を発展させる上で一番大切な精神は、批判的な精神だろう。学問の命をなす批判的精神を子どもたちに手渡すために教師は存在している。人間の豊かな可能性への信頼と批判的な精神。これが共存している教師に学ぶ子どもたちは幸せだと思う。
問題なのは、教師が教師として育っていくシステムが、充分教員免許所得のプロセスの中にないことだろう。
社会福祉士は、一人前になるためにかなり長い期間、カンファレンスを受け、事例に対しどう向きあうのか訓練を受ける。それらの訓練は、教え込みではなく、自らの実践の中で学ぶというものだろう。
学問の自由という名において、子どもと向きあえる教員の育成。そういう方向にゆくゆくは進んでほしい。
ただし、現行の教員制度のもとで、こんなことをおこなうのは反対。
日本の教育は教化の方向に進んでいる。それがあたかも改革であるかのように言われている。歴史教育の中には、日本の明治以降の歴史を造りかえるような動きが激しい。このような圧力が、学校から自由を奪い始めている。今の制度のもとで、国が教員養成のあり方に踏み込んでいったら、それは全くの反対物になってしまうに違いない。
ここからは、学問と教員の関わりについて書いてみよう。
学問は、本来、深く大きく、豊かなもの、そしてそれ故に確かなものと混沌としたものが複雑に入り交じっている。教えるという行為は、学問のこういう豊かさに裏打ちされたものだと思う。
人間を見る目の豊かさと自分が教えていることへの深い理解、この2つが重なり絡み合うところに教員の面白さがある。ぼくはそう信じている(門外漢が勝手なことを書くので、今日のこの話は、かなり空想的なものになりそうだ)。

教える内容について、情熱や喜び、楽しさがなければ子どもに教える中身は伝わらない。
小学校で教えることは、学問としては初級だろうけれど、基礎的な知識のない子どもたちに、喜びと納得のなかで内容を習得させるには、かなりの準備と研究が必要になる。
驚きや発見がなければ、学んだことは記憶に残らない。
人間が獲得してきた知識や知恵は、試行錯誤の中で試され、発見され確認されてきたもの。そこには、ものすごい人々の、長い長い歴史がある。学ぶと言うことは、先達が苦労を重ねて発見したこと、発明したことなどを、時間を短縮して学びとることでもある。
ぼくたちは、なかなか天才にはなれないけれど、天才が生涯をかけて研究し、発見したことを学ぶことはできる。学ぶというのは、人類史に名を残している巨人の頭の上に立って、天才であった巨人が見ることのできなかった視野と視点をもって、時代を切りひらくということでもある。人類発展のバトンを巨人から引き継いで、さらに発展させる。そこに学ぶことの意味があるだろう。
人間が築いてきた叡智を学び、自分自身や社会を見る目を豊かにすれば、一度きりの人生は、今以上に豊かになる。自分の幸福と社会の幸福が一致するような広い視野をもった学びを生み出してほしいと思う。
そういう道に進むために必要なのは、知的好奇心の発揚だろう。
発見や発明に胸を躍らせた感動を学びとらせなければ、次の発見や発明はない。学ぶことのワクワクする気持ちを子どもたちにどのようにして伝えるのか。──ここに教師の探究と研究がある。
永遠は、0から1の間にも存在する。小学校の課程が、学問としては相対比較として、簡単なことを教えるとしても、この中にも無限につながる永遠がある。
1+1=2という単純な式を考えてみたときにも、ここには無限のつながりがある。
りんごとミカンを足したときに2と表現するのは正しい。
そこに果物が何個ありますか。こう問われたら、りんごという具体性は消え、ミカンという具体性も消えて果物という共通項が一致しているので1+1=2となる。
りんごとミカンを前に置いて、りんごはいくつありますか。と問えば、1+1=2は成り立たない。
十進法、二進法などに視野を広げると1+1の答えは変わってくる。
自然科学の分野に視野を広げ、具体的な物と物を前に置いて論じ始めると1+1=2になることは極めて稀なことだというのも見えてくる。化学反応では、方程式上、100%反応することになるものでも、化学反応による分子の結合がとかれてしまって、つまり行きつ戻りつの反応が繰り返されて、1+1=2にならないという現実がある。
科学は、非常に柔軟な発想を求めていくが、子どもの時代から子どもの中に柔軟で豊かな発想を培っていく必要がある。いきなり、複雑な思考を子どもの求めるのは不可能だが、学問には追い求めてもなかなか答えが見つからない深いものがあることを、感じ取ってもらうことが大事なのだと思う。
問いと答えがはっきりしたことを学ぶのが勉強ではない。
こういうことを考えていくと、人間の認識をどのようにして培えばいいのか、よく分からなくなる。よく分からないからこそ、教員は、自分たちが教える内容をより深く、より豊かに学ぶ必要があるのだろう。
現在、学校で教えているカリキュラムが科学の到達点を示すものではないこともはっきりしている。
国語教育を例に考えてみよう。
日本の場合、たとえば、国語教育では、文章の書き方をきちんと学ぶようにはなっていない。
文章を書くという行為は、本当は国語教育の集大成のようなものだし、最も実践的な学びの組織になる。しかし、日本の国語教育は、文章を読み取る読解力と漢字や熟語の学習が中心で、文章の書き方を系統立って学ぶことはない。
多くの日本人は、事実や自分の気持ちを伝えるための文章と、小説の文章の違いを知らない。小説の文章というのは、小説の世界だけに成り立つもので、小説を書かない人間は、あのような文章を書く機会がない。
小説とエッセイにも違いがある。エッセイは、一人称で書かれるものだろうけれど、小説は、第3者の視点で登場人物の真理や情景を描写することがある。小説の世界だけに成り立っている文章というものがあるということだ。
起承転結が文章を書く基本だと思っている人が多いだろうけれど、ぼくたちが普段読んでいる文章は、圧倒的に起承転結にはなっていない。一番多い文章は、新聞のような文章だろう。でもいきなり新聞のように書けと言っても、多くの人は書けない。新聞には新聞の書き方がある。よく言われるのは、逆三角形のように書くということだ。
たとえばこんな風に。
「○月○日、○時○分頃、○○で殺人事件が起こった。犯人は男性、さされたのは女性、刃物は刃渡り20センチのナイフ。男は、女性に恨みをもっていた様子。凶器は駅前の金物屋で購入、女性が歩いているところを背後から駆け寄って右脇腹を刺し、倒れたところを馬乗りになって、胸を2度刺した。女性は即死状態だった。男性は逃げようともせず、通行人の通報によって駆けつけた警官に取り押さえられた。」
だんだん細かな状況を書いていくと逆三角形の文章が出来上がる。
文章が自由に書けるようになりたいと思いながらも、なかなか書けないので、苦手意識をもっている人が多いだろう。しかし、文章の書き方を習ってこなかったのだから、書けなくても不思議でない。
文章は、訓練次第で書けるようになる。
「誰でも文章が書けるように」。21世紀の国語教育は、やはりこのことをめざすべきだろう。
かなり脱線した。子どもたちが学ぶことの内容について、文部科学省が一律に学習指導要領でがんじがらめにしていることが気にくわない。もっと豊かに学ぶ内容について研究がおこなわれ、個性的な教え方が生み出されていくのがいい。
教員になる方々は、豊かな学問の世界を知り、子どもたちを生き生き伸び伸び育てるというようにならないものか。こういう教育を実現するためには、文部科学省が積み重ねているものを根底からひっくり返す必要がありそうだ。
アメリカには、国が定めた教科書はないという。いいなあ。自由がある。学びにとって自由は空気のように大切だ。空気がなければ人間は生きることができない。
なんだか、ひどく勝手なことを書いてしまった。もちろん、ここに書いたことは日本共産党とは何の関係もない。


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Posted by 東芝 弘明