溝端康雄さんが亡くなった

未分類

元かつらぎ町長だった溝端康雄氏が逝去された。葬儀が午後1時からおこなわれたので参列させていただいた。
この方は、1983年、5代目のかつらぎ町長に当選した方で3期町長を務めた方だった。ぼくが議員に当選した1990年の頃は、2期目の3年目にあたっていた。ぼくが30歳で当選したときに、当選祝いの選挙事務所訪問で一番最初にぼくの事務所を選んだという話しを聞かされた。
溝端氏とは何の面識もなかったぼくは、議員、町長という関係で始めて知り合い、議場で対峙することとなった。
この方は、80年代から90年代の政治をまさに体現した人だった。1983年という時代は中曽根康弘氏が総理大臣になった時代(1982年〜1987年)に重なる。臨調行革、民間活力の導入という時代の流れに沿って、溝端氏はかつらぎ町で1989年4月、妙寺保育所の民間委託を強く推進した。
当時、保育所を民間に委託できるような客観的な条件はなかった。委託先がなかったので、かつらぎ福祉会が設立された。妙寺保育所の民間委託は、かつらぎ町長の依頼に基づく民間の福祉法人設立なしには実現できなかった。これは、国鉄の分割民営化と同じような同じような手法だった。
溝端氏は、かつらぎ町の財政再建を掲げて当選した方だったが、財政再建の課題は、時代が溝端氏を後押しした。1986年頃から1991年頃まで日本は地価の高騰を契機としたバブル経済に狂奔した。地方自治体には、交付税に算入されてくる各種基金の創設と積み立てで多額のため込み金が作られていった。溝端氏の財政再建の公約は、1期でほぼ達成され、単年度収支が黒字になってから氏は、積極的な開発構想を打ち出してかつらぎ町を人口3万人にすると明言した。
この構想を具体化したのが1986年に策定された「かつらぎ町長期総合計画基本構想」だった。この「基本構想」は、かつらぎ町の7つのエリアを7つの里と名付け、とりわけ北部の山間部で300万坪の住宅開発・企業誘致をおこなうとしたものだった。
これは、まさにバブル経済の流れを体現した計画だった。溝端氏は、印刷会社の社長という経歴をもつ民間の経営者だったが、若い頃から町議会議員を歴任してきた政治家でもあった。経営手腕に長け、政治家としても感覚を磨いてきた氏は、時代の流れを肌で感じ取り、それを活用して構想を打ち出したという点で、まさに時代の寵児だったように思う。
ぼくたち2人の共産党議員は、この町長の時代に真正面から対峙する議員として活動を出発した。
共産党議員団は、政治的には、この構想と真正面から対決した。バブル経済の崩壊以前からぼくたちは、人口3万人構想が実現不可能な開発計画であることを批判して、大規模開発の中止を時々の具体的な問題を通じて明らかにして立ち向かった。
政治的な対立は、妥協のないものだったが、次第に計画の破綻があらわになり、住宅開発は妙寺でも広浦でも実現不可能なものになっていった。大型の企業誘致計画も土地の造成に至らず、次の町長にゆだねるもにしかならなかった。
溝端元町長が描いた当時の構想は、京奈和自動車道の開通と480号の府県間トンネルの開通を視野に入れたものだった。しかし、この2つのルートは、時間的には10数年たった今もまだ実現していないものであり、タイムスケジュールの合わないものだった。時代の先を見据えた構想は、次第にちぐはぐなものになっていった。
歴代町長の中で溝端町長は、かつらぎ町を積極的に発展させるという構想を打ち出したという点で異色の存在になっている。氏の構想はバブル経済なしには考えられないものだったが、自分の頭で考えてビジョンを打ち出すという点では、強烈な個性をもつものだった。
町長としては、極めてワンマンな方だった。町長の意向が町政に色濃く反映し、言いだしたらてこでも動かないというところがあった。
しかし、政治家として、議論に破れるとあっさり相手の主張を受け入れ実行するというようなところもあった。歯に衣を着せない答弁は、数多くの溝端町長語録を生み出した。
「東芝議員は家を建てたことがないから分からんやろけど」
総合文化会館が30数億円の事業から40億円の事業に跳ね上がったので、このことを追及するとこんな答弁が返ってきたことがある。この発言は保守の議員も問題視し、本会議場で町長が陳謝するということになった。総合文化会館の予算増額の真意を尋ねると「粉河に負けたらあかん」という答弁が返ってきて驚かされたこともある。
答弁は、予想を超えたものが多く、予想を超える答弁はおかしくもあった。
社長としては、社員の面倒見のいい親父さんという面をもっていたようだ。長く番頭役を務めていた方が1期だけ議員を務めていたことがあったが、この方に町長の人柄の話を聞くと、「どんなに仕事が遅くなっても帰りを待ってくれていた」という話しがくり返し出てきた。
町長になってからも、人事面では、課長を大事にし頻繁なポストの異動をおこなわなかった。各課の課長は、自分の課の仕事をプロ意識をもって把握し、責任をもって答弁していたように感じた。人を大切にするこの側面は、議場でもプラスに働き、町長が窮地に陥ったときには、課長が町長を必死でかばうという形で現れていた。
対立しながらも憎めない人だった。
町長としての功罪はある。かつらぎ町に残した負の遺産も多い。しかし、ユーモアのある憎めない人柄は、この人の楽しい側面だった。溝端氏の思い出話をするとみんな笑い顔になる。ひどかったなあという話でも思い出には笑いが絶えない。職員だった人の話を聞くと、ワンマンぶりに苦しめられながらも、思い出話に懐かしさが入り交じることが多い。氏には子どものような純朴な側面があり、そこに暖かさを感じるのかも知れない。
議員の2期目にぼくは34歳で結婚した。町長に結婚式への招待状を渡すと出席を快諾してくださった。結婚式は、できて間のないかつらぎ総合文化会館でおこなった。
結婚式の受付でこんなやり取りがあった。
「わしは溝端や」
「はい、溝端さんですね」
「わしを知らんのか。町長の溝端や」
九度山町在住の若い受付の係の女の子には、「溝端や」といっても話が通じなかったのだ。
「床、汚さんといてや」
受付にそう念を押したことも忘れがたい。
「御会葬御礼」の封筒の中には、カラー写真が印刷されており、奥さんの肩を抱いて笑っている氏の写真があった。ほんとに楽しそうな顔をした2人がそこにいた。
溝端氏が町長職に就けなくなってから12年、ぼくは3人目の町長と対峙している。時代の流れは速い。氏と対峙していた時間の倍以上議員活動をおこなってきた。氏と真剣に向き合っていたのは、5年間だった。この5年間はぼくの議員としての初心が結実している濃密な5年間だった。向き合っていた中に流れていた心の交流、それが今は懐かしい。
1919年(大正8年)生まれの氏は、87歳になっていたのかも知れない。
ご冥福をお祈りします。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

未分類

Posted by 東芝 弘明