小さい子どもは批判的精神のかたまりです
大学生を相手に、政治に興味が持てるような取り組みを行っている特集記事があった。日本の若者の選挙の投票率が低いことを踏まえた取り組みだった。
読みながら浮かんできたことがあった。
それは、なぜ、そのような取り組みを小学生の時代から始めないのか、ということだった。
随分前に、議会の傍聴に来た中学生がいた。先生が授業の一環として町議会を見せるというものだった。
この取り組みに対し、当時の教育長は激怒した。
当時の教育長の言い分は、“議会傍聴は、応用問題。中学生にはまだふさわしくない”というものだった。
子どもは、順調に育っていくと、当然の事として政治や社会のことにも興味を持つ。小さい頃から政治や社会のことを学校の授業を通じて学んでいくのだけれど、その時に、子どもの関心に沿って、実際の政治や社会のことを学校の授業に組み込んで、学んでいけば、ごく自然に政治と社会に対して自分なりの考えをもつようになる。議会傍聴大いに結構。中学生が、かつらぎ町議会のような議論を目の当たりにすれば、政治や社会に対し強烈な印象をもつだろうと思われる。そのような機会をふさわしくないと言ってのけた教育長の考え方は、根本的に誤っている。
普通なら自分たちの生きている政治や社会に対し興味を持つのに、それを妨げているものは何か。
一つは、国民の生活の中に政治や社会に対して自由にフランクに語り合うような文化に乏しいからではないか。親がごく自然に政治や社会のことを話題にするような雰囲気にあれば、子どもたちも自然とそういうことを考えるだろう。親の世代が、政治や社会に対し自由に考えるようになっていないので、子どもにもそれが文化として伝わり、悪循環が生まれているのではないだろうか。
子どもの権利条約は、幼児であっても、すべての子どもは政治と社会の情報や問題に対し、触れることもできるし発言することを権利として保障している。しかし、日本ではこのような考え方は、ほとんど確立していない。子どもの考え方は未熟だという意見が根強ある。悪くいえば、「子どもは黙っとれ。大人の問題に口出しするな」ということだろう。
これは、子どもは人間として育っていない未熟な状態という考え方だ。子どもの権利条約は、意見表明権を保障し、情報にアクセスする権利を保障し、さらに子どもの意見を表明するための具体的な手段についても保障する考え方を示している。
この考え方を貫いていけば、政治や社会の問題について、小さい子どもが意見を表明することは、当然の権利だということになる。
日本の教育制度の中では、高校生になってはじめて「健全な批判的力を養」うことが出てくる。このことを規定した法律の規定は次のとおり。
「学校教育法第五十一条三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。」
しかし、この考え方は、小学校・中学校には出てこない。ここに日本の教育制度の根本的問題の一つがある。高校生になって批判的な力を培おうとするのでは遅すぎる。批判的精神は、物心ついた頃から、学びの根本的精神として培われなければならない。
子どもの権利条約にある意見表明権などの権利とともに、批判的精神の涵養が大事にされないと、政治や社会にアピールしたり、コメントしたりする人間は育たない。
批判的精神は、自己にも他者にも社会にも向けられる。自由に物事を考えるためには、全ての物事を検証するようなものの見方が必要になる。
子どもは、好奇心のかたまり。いわば、小さい子どもは批判的精神のかたまりのようなもの。多くの人は気がついていないのだけれど、大人は子どもの批判的精神の芽を一生懸命に摘みとっていることが多い。
小さい子どもの、なぜと思う疑問にしっかりと答えていけば、批判的精神は自然に身についてくる。子どもの中に人間の欲求として自然発生的に生まれてくるものが批判的精神だ。この精神を大切にして伸ばして行けば、政治や社会に関心をもつようになり、大人になったら投票に行く人間になる。
批判的な目で社会を見る人間を育てないと社会進歩はない。社会を批判的な目で見る人間は、当然社会体制に対しても批判的になる。社会に対しては従順に。同時に物事を見るときには批判的に。というのは一つの矛盾であり、なかなか両立しない。
日本の教育が、小学校と中学校で批判的精神を育てないのは、時の政権が体制を維持したいがためのご都合主義ではないだろうか。
好奇心と批判的精神を混同するのは、いささか違和感というか賛同できない主張です。それとご都合主義の批判的精神は、意味がありません。
子供には好奇心がありますが、・・・それが批判的精神?????
いつも思うんだけど、大事なところの論理があいまいです。言葉の意味がおかしい?簡潔じゃないのよね・・東芝さんの論理はいつも。抽象的な言葉で誤魔化すのよね。文章は整っているんだけど・・・・内容は意味不明です。
好奇心と批判的精神はどうして同義語なの?
子どもの好奇心は、なぜと問う力が基本です。このなぜと問う力に向きあって大人が対応すれば、こどもの中に自然と批判的精神がつちかわれます。
批判的精神というのはあまり使用されない語句で、その意味合いに誤解を招くものです。
一般的に好奇心と批判的精神というのは同義語ではないと思います。「なぜと問う」ことは好奇心ですが、批判的とはちがいます。
おまけに、「日本の教育が、小学校と中学校で批判的精神を育てないのは、時の政権が体制を維持したいがためのご都合主義ではないだろうか。」という政治的意図を結論に持ってくると興ざめするものですよ。
トリノさんは、批判的精神に対して、少しアレルギーがありそうな感じですね。批判というのは、懐疑的になるという事ではありません。より根本的に物事を考えるためには、物事を肯定しつつも、同時になぜそうなるのかを問いかけるということです。
教育には、時の権力者によって支配されてきた歴史があります。戦前は軍国主義的な教育が行われました。戦後はどうでしょうか。戦前の反省から教育は、政治的権力から独立すべきだとして、教育委員会が作られ、政治の介入を受けない仕組みを作りました。しかし、学問の自由は、これを保障するという原則は、政治的な介入によって揺らいできました。
原発の問題でも従軍慰安婦の問題でも、学問の場合、タブーがあってはなりません。事実を探究して、真実、真理にたどり着くのが学問のいいとこころです。探究した結果、原発が人類とは共存できない未熟な技術だということや、従軍慰安婦は、あの戦争の時に厳然たる事実として日本軍が深く関与していた。慰安婦はまさに性奴隷だったという結論に至ったとしても、それを大胆に受け入れるということです。そこに政治的な価値判断はいりません。
批判的精神の意味を勝手に定義してもらっても、一般的な意味と相違があります。哲学的思想からの言葉だと思いますが、僕が今までいろいろな書物を読みましたが、批判的精神という言葉を見たことはありません。
子供の好奇心旺盛なのと批判的精神は同義語じゃないですよ。とくに「根本的に物事を考えるためには、物事を肯定しつつも、同時になぜそうなるのかを問いかける」というのは哲学の考えで、一般的ではありません。
それと、法眼晋作さんは昔の講演で、「日教組による教育が、日本の教育をダメにした」と語っていました。
要するに、右派と左派の水掛け論です。
批判的精神をGoogleで検索してみてください。たくさん出て来ます。トリノさんがいうように哲学的な言葉ですよね。
物事を歴史の経緯をふまえてみるものの見方は、自然科学から社会科学まで極めて必要で有用なものです。戦前の教育が軍国主義的な教育になり、国民を煽動、洗脳していたのは明らかです。戦後、自由な国になり、民主主義と自由が語られたときに、教育は国家権力からも自由でなければならないということになって、教育基本法ができました。人格の完成をめざすことが、教育の目標になりました。しかし、戦後は、日本の産業界の要請に応えるように、次第に教育が歪められてきました。
最近は、明らかに歴史の修正主義が幅をきかせて、歴史的事実を歪めるような傾向が強まってきています。日本国憲法とその中心的命題である憲法9条を否定するだけでなく、戦後の国際社会の原点になった侵略戦争を否定した第二次世界大戦からの教訓をも、踏みにじろうとしています。
このような教育に対する介入には、未来はありません。
「私は議会でこの議題に対しては納得いかないので、批判的精神で対応したい。」というような表現はアリかと思いますが、「子どもは、好奇心のかたまり。いわば、小さい子どもは批判的精神のかたまりのようなもの。」という表現は、どう見ても違和感があります。
言葉というのは、その時代の流れで作られていくものなので仕方ないものです。たとえば、超(チョー)というのを頭に着けて表現するのが最近出てきている。(僕は、言いだしっぺは誰か知っていますが・・)超おいしいなんて表現も最近は通じます。
でもなぁ~批判的精神の意味が、「根本的に物事を考えるためには、物事を肯定しつつも、同時になぜそうなるのかを問いかける」と訳されると、批判的という言葉を勝手に違う意味に取り違えてる。まして好奇心とは、全く使い方が違います。
好奇心的精神と使えばいいじゃないですか?わざわざ批判的という語句を間違って使う必要はない。
岩崎武雄さんの本に「正しく考えるために」という本があり、批判的精神について、次のように書いています。
「批判的心構えとはすべてのことに対して疑いを持つということです。いろいろの意見に対して、それをただちに信じてしまわずに、一応それを疑ってかかることです。われわれはどんな意見に対しても、はたしてそれが間違っているところはないかと疑ってみなければなりません。(p27)」
「批判的精神は決して否定のための否定ではありません。それは絶えずあらゆる意見に疑いを持ちながら、冷静にそれを検討し、多くの意見の中から取るべきは取り、否定すべきは否定して、正しい考え方をしていこうとする態度です。(p28)」
子どもの好奇心は、子どもらしい純粋さの現れでもありますが、それは、極めて人間的な問いを含んでいます。それは批判的精神に真っ直ぐにつながるものです。
ハピママというページに以下のような文章がありました。
「質問期」を上手に付き合うことで、知的好奇心を伸ばすことができる
3〜6歳くらいまでの子供を心理学では、『質問期』というそうです。
2歳を過ぎ、単語しか話せなかったのが2語文になり、「どうして○○はしちゃいけないの?」「これは何?」などと、知的好奇心が活発になる3歳前後のこの時期。
子供の「なんで?」にきちんと向き合い、丁寧に答えることで、子供の学習意欲は高まり、色々なことに興味を持つようになっていくというのです(ある時期になると、ピタッとなくなるという子供もいるので、わずかな期間ともいえますね)。
適当に答えるのはNG! 子供はしっかり聞いています
忙しいからと適当に答えたり、そんなこともわからないの? というような返答は、子供の自尊心を傷つけるだけであまり良いとはいえません。しかし、現実的に正しい理由を答えても、まるで聞こえていなかったかのように質問を繰り返すこともあります。その場合は、求めている答えではなかったからなのかもしれません。
先日、娘に(いつも甘いのに)、今日のリンゴが酸っぱいのはなぜかと聞かれた際に、「(お友達の名前を挙げながら)みんなお父さんお母さんが違うし、住んでいるところも、ねんねする時間も食べるものも違うでしょ? だから酸っぱいりんごもあるのよ? でも、美味しいでしょ?」と答えると納得したのかいつものように、なんで? を繰り返すことなく、「美味しい!」とそのまま食べ始めました。
質問には、子供にわかりやすい例えを使って説明するのがベストですが、子供の成長や性格に合わせて、子供が喜ぶような回答を見つけてあげることもお勧めです。
逆に質問することで、自分で考える力を養うことができる
質問には答えるのが当たり前になってしまうと、わからなければ聞けばいい、と自分で考える力を養うことができなくなります。「なんでだと思う?」と反対に質問を返すことで、自分で考えることに繋がりますし、さほど重要なことでなければ、諦めてくれる場合もあるからです。
忙しいときは無理せず、「○○しているからあとで答えるね」と、あとから丁寧に答えてあげても良いでしょうし、即答に困る内容であれば解らないから調べてから答えるね、と言ってあげても良いでしょう。
答えを聞いた子供の瞳がキラキラと輝くような、夢のある回答を答えてあげてくださいね。
なぜと問う心には、物事に対する疑問があります。この疑問とは何か。なんで?どうして?というのは、物事の本質を知りたいという問いですよね。物事の本質を知るためには、物事を批判的に捉えることが必要です。なぜ、どうしてという問いには、批判的精神が内包されているということです。
岩崎武雄さんの本というのは読んだことがないですが、批判的精神うんぬんの前後にいろいろな文章があり、その中で批判的精神の一文があるのは問題ありません。ただ、一般的に批判的精神が東芝さんの解釈のような言葉として認められている訳じゃない。また子供の好奇心を批判的精神と同義語とするのは、違和感があります。
だいたい批判的精神がアリなら、好意的精神もアリになります。「根本的に物事を考えるためには、物事を肯定しつつも、同時になぜそうなるのかを好意的に問いかける」が好意的精神?
要するに、批判的精神と好奇心と同義語?じゃあ好意的精神も同義語?・・・違うでしょう?
一般的な使い方として間違っていると思います。その大事な部分を誤魔化して論理立てするから、
>多くの人は気がついていないのだけれど、大人は子どもの批判的精神の芽を一生懸命に摘みとっていることが多い。・・・・・・・・・・・・・・・
という部分の説得性に欠けるように思いますよ。
トリノさんのとらえている批判という概念はどうも狭いように感じます。
批判的思考=クリティカルシンキングというのが一つの流行のように言われていますが、その考え方の基本は、
「クリティカル・シンキングとは、あらゆる情報に対して批判的な思考を働かせて分析する習慣のことを指します。逆にあらゆる情報を無批判に受け入れているならば、クリティカル・シンキングが欠如した状態であるといえます。
クリティカル・シンキングとは、情報や他人の結論を「ただ否定する」だけの発言を指すのではありません。結論を支える根拠に対して、「本当にそうなのだろうか?」と疑問を投げかけ、最終的には自分の頭で判断する習慣のことをいいます。」(論理的思考力と論理的な討論 議論 ディベート ディスカッションより)http://ronri2.web.fc2.com/index.html
ということです。
ぼくの言っている批判的精神とこの方が書いている批判的思考とは同じものです。「本当にそうだろうか?」と疑問を投げかけ、最終的には自分の頭で判断する習慣ということと、子どもが、なぜ、どうしてという問いかけから端を発して、自分の頭で物事を考えていくことは、まさに批判的精神を育てることとイコールになるのではないでしょうか。
批判=悪意的ということではありません。物事に対して根本的に問いかけることで悪意とか好意とかいう感情とはあまり関係ないですね。物事に対する疑問は、むしろ興味や関心がある事に対して、強く働くので批判的思考、批判的精神と好意とは同居していることの方が多いのではないでしょうか。
ここでの東芝さんの論評は、その批判的精神と違うので一般的な狭い批判だと感じてしまいます。
で・・・「日本の教育が、小学校と中学校で批判的精神を育てないのは、時の政権が体制を維持したいがためのご都合主義ではないだろうか。」
これが、
「本当にそうだろうか?」と疑問を投げかけ、最終的には自分の頭で判断する習慣ということと、子どもが、なぜ、どうしてという問いかけから端を発して、自分の頭で物事を考えた」
その結果ですか・・・・?
とてもそんなように思えません。悪意的としか感じませんが・・・笑。
日本社会は、国民に対して本当の意味で平等な社会なんだろうか、というのが若い頃からの疑問でした。何かがおかしい。結論だけ書くと日本社会は、封建時代と同じように階級と階級に分裂した社会だったということです。原発問題であれだけの事故がおこたにも関わらず、再稼働にカジを切り、川内原発を稼働させようとしている背景には、原発村という利害集団があり、国民の命よりも経済活動を優先しています。
消費税増税を実行しようとしていますが、その一方で法人税の減税に情熱を上げようとしています。派遣労働の問題でも、派遣労働を期限なしに続けることのできる仕組みを導入しようとしています。若者のかなりの部分が派遣などの非正規雇用になり、女性の半分が非正規雇用です。これらのような社会の仕組みは、いったい誰の利益を守るように作られているのでしょうか。
この問題と同じ問題が、教育にも横たわっています。経済的な利害を守るために教育が歪められているということです。最たるものの一つが、競争のあくなき組織です。競争を徹底的に組織することによって、「学びからの逃走」とでもいうべき傾向が生じています。競争の組織化が教育の質的低下を生み出しているということです。
競争こそが全てというような共育を実現するために、教師の間に成果主義賃金を持ち込み、格差を生み出すようにしたり、合議制の学校運営に校長の権限と教育委員会の権限を強める改革をすすめてきました。この方向での改革は、いよいよ教育委員会は首長に従えというような仕組みまで導入しようとしています。このような教育支配は、戦前の教育への回帰だというべきものです。極めて国家主義的な歴史修正主義を持ち込もうとしているのもその一環です。日本の教育の歪みは、経済界の要請と靖国派と呼ばれるような右翼主義的な勢力によってもたらされています。
こういう力関係をまともに見ないで、教育が国民全体に自由に開かれていると考えるのは事実をまともに見ないということです。戦後の教育の歩みを見れば、これらの流れは見えてきます。物事を肯定的に捉えつつ批判的に見るというのは、いわば複眼思考です。まずは事実をありのままに捉える、同時にそれらの物事の発展の経緯を調べる。そうすれば、日本の教育の本質も見えてきます。
それでも、学校教育という仕組みはどうしても必要です。高度情報化社会である日本で、人間が成長して、豊かな人間になるためには長い教育期間が必要です。矛盾を抱えている教育体制の中で、何をどう学び、人間として成長していくのか。このことを真剣に考えるべきです。
重要なのは、教育は誰のためのものなのか、ということです。
教育は、国民のために存在する権利の一つでしょう。教育制度を文字通り国民に奉仕する機関に変えることがどうしても必要です。国家権力が教育を統制し利用するのか、それとも国民の幸福追求権を保障し、学問の自由を保障して、人間として豊かに発展するものに根本的にあらためるのか。そういうことが問われています。現実の教育の中でもこのせめぎ合いがつづけられています。現行の教育制度は、清濁合わせ持っています。そのなかでより良いものを目指すというのが最良の対処方法です。
教育を国民自身の手に。これが、現代憲法の要請です。そうなっていないので、より良い教育目指して、国民は、たたかわなければなりません。
だから・・・それが批判的精神による論評?岩崎武雄さんの本に「批判的精神は決して否定のための否定ではありません。それは絶えずあらゆる意見に疑いを持ちながら、冷静にそれを検討し、多くの意見の中から取るべきは取り、否定すべきは否定して、正しい考え方をしていこうとする態度です。」と書かれているのでしょう?東芝さんの考えは違うじゃないの・・・笑。否定のための否定ですよ。
岩崎武雄さんという人は、「何事においても簡単に肯定せずによく考えなさい」という趣旨でしょう?またそのためには批判的精神を持ちなさい。と書いているのでしょう?一般的に批判的精神を持てと言っているのではないのではないのでは?
子供の好奇心を都合よく批判的精神にすり替え、その次に東芝さんのような批判だけの考えを持ってくる。少しずつ焦点をズラして最後の言い分が正しいとなるんだけど・・・・岩崎武雄さんの本正しく理解してるの?その手の本は読もうとも思わないけど・・・なぁ~・・・
国民に対して本当の意味で平等な社会なんだろうか?という疑問から原発と憲法と消費税と教育に思い馳せることができるのですか・・・・すごいすごい超批判的精神と呆れてしまいます。m(_ _ )m
日本社会は、江戸時代が階級社会でったように、現在の資本主義社会も階級社会であることに変わりはありません。奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会、これらの社会は全て階級社会です。
支配されるものと支配するものに分裂した社会であることを把握することが、社会を肯定的に理解しながら当時に批判的に見る見方です。
原発村という言葉は、原発を推進することによって、経済的利益をうける勢力があることを意味しています。まさに経済的利害によって、国民の命よりも原発による利益を優先するようになっています。
階級というのは、経済的な人間関係の中で、生産手段に対する位置の違いによってその役割が違うことによって分かれる人間の集団です。原発という生産手段を手にしている勢力によって原発村が形成されており、この勢力が政治と結びついて、原発を推進し、人間の命さえないがしろにするという形で、階級と階級の対立がおこっているということです。
教育における対立の背景にも、経済的な利害の対立があります。物事を批判的に見るということは、現実に存在しているものの成り立ちを理解するとともに、それらの事物が、生成と発展の過程にあった事を理解すること、それらの物事が今後どう変化していくのかを見るということです。肯定的にとらえながら、同時に批判的にとらえるというのは、こういう見方につながるものです。
批判=叩きつぶすということではないということです。
どうも、1つのものの中にある相反する2つの傾向という話をトリノさんは、理解できないようですね。
否定というものも、完全にその存在を否定するというものの見方ではなく、否定は、規定と表裏一体のものだということです。物事を規定するという規定は、必ず同時に否定を含んでいるということです。
A=Bということは、AはBであって、C、D、E等々ではない(否定が含まれている)ということです。批判的に理解する認識の中には、肯定的に理解することが含まれているということです。
子どものなぜととう心は、その物事を全否定するのではなく、肯定的に理解しつつもなぜ、どうしてという問いかけであり、このような問いかけは、まさに批判的思考につながるものです。
批判的精神の説明と東芝さんの論評には食い違いがあると言っているのです。今までの僕の経験則から、怪しいものは複雑です。嘘の世界は複雑で、真実の世界は単純ということです。
東芝さんに説明を求めるごとに、内容が複雑になっていきます。直観的に真実の思考ではありません。、間違った思考です。
この前、どうして原発に反対するのか?と問いかけたときは核燃料サイクルが完全ではないからと答えたのに、今度は原子力村とか放射能漏れとかに理由がすり替わっている。つまり結論がありき反対理由。
何事にもメリットとデメリットがあります。その対比が東芝さんには抜けている。反対にための理由を探した論評です。
伊丹空港の騒音問題、関空が完成した途端ピタリと止まった。つまりメリットの方が大きいかったのです。原発も同じ、さあ原発が稼働しないとなるとデメリットよりメリットの方が大きいということを実感した。その結果が稼働同意です。
沖縄の米軍基地なんかもそうですよ、反対運動しているのはごく一部でもし米軍が完全撤退か存続かを議会に問うと、必ず存続を選択するはずです。
まあ~東芝さんは政治家なので、当然利権者の支持を得ている訳で、その意向に背けないのが事実ですが・・笑。別に悪いと言っているわけではありませんよ。政治家というのはそういうものです。各々の利害関係者が代表として政治家を選出するものです。それが政治だと僕は思います。
ただ・・・あまりにも間違った論理を展開されるとなぁ~
原発の最大の問題は、過酷事故が起こるとメルトダウンして手に負えない事態になること。つまり原発の技術は、極めて不安定なものでしかなく、人類は原発をコントロールできないということ。
もう一つは、使用済核燃料を処理する技術を持っていないということ。
それなのに、原発推進となるのは、原発村という利益共同体が存在するということ。儲けが人間の命よりも大事だという資本の論理によって維持されている、ということです。
儲けのために悪魔に魂を売るがごとく、原発が推進されています。
極めてシンプルです。
「我亡き後に洪水は来たれ」これが全ての資本家のスローガンである、と喝破したマルクスの言葉が、真実を射抜いています。
それが批判的精神による考え?シンプルじゃなく単純という内容です。前に中学生のディベートマッチで「原発は必要か?」という問いに対して「必要」「不要」というのがあった内容より、はるかに劣る。
その程度の考えなら、現在の中学生ならほとんど思考できます。誰でもできるレベルです。せめてメリットとデメリットを対比させて答えを出してほしい。
反原発という答えが決まっていて、デメリットだけを強調した批判です。
>どうも、1つのものの中にある相反する2つの傾向という話をトリノさんは、理解できないようですね。
否定というものも、完全にその存在を否定するというものの見方ではなく、否定は、規定と表裏一体のものだということです。物事を規定するという規定は、必ず同時に否定を含んでいるということです。
A=Bということは、AはBであって、C、D、E等々ではない(否定が含まれている)ということです。批判的に理解する認識の中には、肯定的に理解することが含まれているということです。
これはなんなの???・・・あれほどもっともらしい批判的精神を語っていながら、反原発論は中学生以下の内容です。
無茶苦茶ですよ。政治家でしょう?・・・もう少しまともな論評はできないのでしょうか?レベルが低すぎます。中学生のディベートマッチで「儲けのために悪魔に魂を売るがごとく、原発が推進される」なんて言ったら大爆笑ものですよ。・・・もしかしてジョーク?と言いたくなる。
原発のメリットデメリット。
これは、ナンセンスです。
ディベートマッチというのは、いわばゲームです。福島原発の事故による放射能汚染を前にして、あの現地で、原発のメリットとデメリット論を展開できますか。現実は、ゲームではない。いまだに13万人が避難している現実があります。こういう問題に東電は全責任を負うべきでしょう。
不可抗力というのは、成り立ちません。
原発は安全です。過酷事故は起こりませんと言い続けてきたんです。津波の規模の想定もした上で、過酷事故は起こらないと言ってきました。それなのに事故は発生しました。自然災害だから不可抗力だった。想定外の事態だったといえるのでしょうか。
トリノさんは、思考実験が好きなようですから、福島原発の事故の現場に行って、メリット・デメリット論を展開して論じてください。原発推進だからメリット論を説得力をもって語ってください。よろしくお願いします。
福島の汚染状況はチェルノブイリを超えているという専門家の指摘もあります。こういう事故が起こっていながら、なぜ原発を再稼働するのか。
問われているのはこういう問題です。
ぼくは、原発事故が起こった次の日の12日に3本の記事を書き、13日、14日、15日、16日とつづけて原発事故のことを書きました。メルトダウンが起こる仕組みにも詳しく言及しました。空だき状態になったら必ずメルトダウンが起こるというのが原発のもつ構造だからです。
熱水力学的不安定性があるというのが、原発のことを知る人の昔からの見解でした。
福島原発のような地震が起こったら、原発の過酷事故が起こる、津波がきたら、引き潮でさえ深刻な事態を引きおこす事を指摘したのは、吉井英勝衆議院議員です。地震が起こる1年以上前の国会での質問です。
「日本の原発ではそんなことはおこらない」と答弁したのは当時の安倍さんでした。
福島原発は、津波の前に地震によって全電源が喪失したという指摘があります。このような危険性のある原発事故のデメリットは、メリットを遙かに超えています。
トリノさん、いったい原発事故が起こったら、電力会社はどれだけ命の補償をするのですか。東電は、本当にその補償を担えるんですか。一私企業が、ウラン購入も含め、核燃料棒の廃棄まで含めて責任を負った場合、どれだけの費用がかかるんですか。入口と出口で責任を負っていないので、原発は成り立っているのではないですか。全責任を負えば、コスト計算は全く成り立たないのが原発ではないのですか。
デメリットがメリットを遙かに上回る場合、どうなるのか。お答えください。
熱水力学的不安定性(空だき状態になったら、つまり燃料棒がむき出しになったらわずか数分でメルトダウンが起こる)の問題克服の処方箋と使用済核燃料の廃棄方法をお答えください。この問題に答えないで、デメリット論しかないというのは話にならないというのは、話にならないです。
規定性は否定性を含むという話は、どうも理解できないようですね。規定=否定です。
原発論をここで問題にしているのではありません。好奇心と等しいという批判的精神で導き出された東芝さんの反原発論は、中学生のディベートマッチの内容にも劣ると言っているのです。
反原発の理由だけを探して論評しているに過ぎない。そんな批判的精神を子供に勉強させる必要はないと思います。またここの「日本の教育が、小学校と中学校で批判的精神を育てないのは、時の政権が体制を維持したいがためのご都合主義ではないだろうか。」というのは根拠なき推論となります。
子供に批判だけを勉強させてどうするのよ・・・間違っています。原発についてメリットとデメリットを考えさせて、それで判断をさせる過程を勉強させなければいけないのです。
東芝さんの批判的精神だと、政策の反対のための材料を探して批判する。・・・・ただそれだけ。
尾木直樹さんが、かつらぎ町で講演をしたときに、教育にとって最も大切な精神は、批判的精神だと語ったことがあります。日本の小・中学校の教育には、この批判的精神が欠落していると指摘しました。
原発問題など論点をずらしているというので、シンプルに書いたと言うことです。これに対し、はじめに結論ありきでデメリット論だけ書いているというので、原発問題について書きました。
原発問題に対し、批判の矛先を向けてきたのはトリノさんです。トリノさんのメリット論をお書きください。ぼくのデメリット論と比較してみましょう。
どうも、批判という言葉にアレルギーがあるようですね。あれか、これか、という二者択一的な思考に単純化する傾向があるということでしょうか?
反原発をその批判的精神で導き出したのか?東芝さんの反原発論は、反原発の理由を並べただけで、中学生ディベートマッチの内容より劣るものだと言っているのです。
僕としては、その好奇心と等しいという批判的精神の具体的な考え方を知りたいのです。
それと僕がメリット論書いてどうするのよ。話題が完全にそれるじゃん。
ここの東芝さんの論評の大きな疑問点。好奇心とおなじ批判的精神を具体例で示してほしいのです。
今までの東芝さんの消費税も原発も「日本社会は、国民に対して本当の意味で平等な社会なんだろうか」という問いかけに対する論理もただの政権批判に過ぎません。そんな批判的な考えは子供が持つべきものではありません。
わが家の娘が小さい時に言いました。
「お父さん、あそこに白い空あるやろ。青い空と白い空に分かれてる」
「白いのは空でなくて雲っていうんや。雲っていうのは、水でできていてね……」
そういう話を延々としていました。
「空はなぜ青いの」という問いにも答えなければなりません。
もちろん、政治のことにも。
こういう会話を続けていると、答えられないことが続出します。その時は、きちんと調べて、説明していました。
こういうことを繰り返していると、分からなかったら調べる、自分の頭で考えるというような傾向が娘に生まれてきました。イラク戦争が起こったときに、テレビを見ていた娘は、ぼくが一言も教えていないのに、「ブッシュが悪いと思う」といい、6年生になると、同級生の女の子と2人でよく政治のニュースについて話をしていたといいます。「私たちのクラスで、政治の話をしているのは私たちだけやった」と娘は語っていました。
なぜと問い続ける心は、好奇心でもありますが、その疑問にきちんと答えて、一緒にものを考えると、批判的精神は次第に培われると思います。なぜという問いかけを出発に、なぜという疑問についてきちんと考えるという作業が、批判的な精神を培う力になるということです。
日本社会は本当に平等な社会なんだろうか、という疑問は、ぼくの高校時代の疑問でした。こういう疑問をもったのは、小学校時代の学びに原点があります。ぼくたちを教えてくれた担任の先生は、公害がなぜ起こったのかを一緒に子どもたちと考えるような先生でした。国語にしても、読み取りの授業は、発見に次ぐ発見でした。先生と子どもが一緒に考える授業をたっぷり時間を取って教えてくれました。
算数の時間、三角形の面積の出し方は、子どもたちの討論によって、発見させてくれました。公式には、極めて合理的な法則があり、その法則は、人間の思考の進化によって発見されたものだということを実体験させてくれました。
高校時代の、平等な社会出ないのではないか、という疑問が解決したのは、高校を卒業してからです。江戸時代と同じように階級に分裂した社会だったことを知ったのは、18歳の時で、それはかなり衝撃的なことでした。その後経済学を学び、哲学を学び、ものの見方、考え方が次第に複眼的になってきました。
自然科学は、今までの研究を肯定的に理解しつつ、同時に今までの成果を批判的に検討するなかで、新しい視点、新しい問題意識をもつことができます。そのことを通じて発展するということです。
今の日本社会が、オールジャパンみたいな体制だとトリノさんは思っているのでしょうか。経済的な利害の対立が、政治的な対立を生み出す。国民の意思が国会に反映しないことが多いのは、経済的な利害の対立によって生じているというようには見えていないということでしょうか。
原発のメリットがデメリットを上回ることはありません。ぼくはそう思っています。トリノさんがこちらにふったから、お聞きしました。デメリット論の結論は、原発は人類と共存できないということです。トリノさんが、原発を擁護したいのであれば、デメリット論を乗り越えるメリットを示すべきです。