小さい子どもは批判的精神のかたまりです

雑感

大学生を相手に、政治に興味が持てるような取り組みを行っている特集記事があった。日本の若者の選挙の投票率が低いことを踏まえた取り組みだった。
読みながら浮かんできたことがあった。
それは、なぜ、そのような取り組みを小学生の時代から始めないのか、ということだった。

随分前に、議会の傍聴に来た中学生がいた。先生が授業の一環として町議会を見せるというものだった。
この取り組みに対し、当時の教育長は激怒した。
当時の教育長の言い分は、“議会傍聴は、応用問題。中学生にはまだふさわしくない”というものだった。
子どもは、順調に育っていくと、当然の事として政治や社会のことにも興味を持つ。小さい頃から政治や社会のことを学校の授業を通じて学んでいくのだけれど、その時に、子どもの関心に沿って、実際の政治や社会のことを学校の授業に組み込んで、学んでいけば、ごく自然に政治と社会に対して自分なりの考えをもつようになる。議会傍聴大いに結構。中学生が、かつらぎ町議会のような議論を目の当たりにすれば、政治や社会に対し強烈な印象をもつだろうと思われる。そのような機会をふさわしくないと言ってのけた教育長の考え方は、根本的に誤っている。

普通なら自分たちの生きている政治や社会に対し興味を持つのに、それを妨げているものは何か。
一つは、国民の生活の中に政治や社会に対して自由にフランクに語り合うような文化に乏しいからではないか。親がごく自然に政治や社会のことを話題にするような雰囲気にあれば、子どもたちも自然とそういうことを考えるだろう。親の世代が、政治や社会に対し自由に考えるようになっていないので、子どもにもそれが文化として伝わり、悪循環が生まれているのではないだろうか。

子どもの権利条約は、幼児であっても、すべての子どもは政治と社会の情報や問題に対し、触れることもできるし発言することを権利として保障している。しかし、日本ではこのような考え方は、ほとんど確立していない。子どもの考え方は未熟だという意見が根強ある。悪くいえば、「子どもは黙っとれ。大人の問題に口出しするな」ということだろう。
これは、子どもは人間として育っていない未熟な状態という考え方だ。子どもの権利条約は、意見表明権を保障し、情報にアクセスする権利を保障し、さらに子どもの意見を表明するための具体的な手段についても保障する考え方を示している。
この考え方を貫いていけば、政治や社会の問題について、小さい子どもが意見を表明することは、当然の権利だということになる。

日本の教育制度の中では、高校生になってはじめて「健全な批判的力を養」うことが出てくる。このことを規定した法律の規定は次のとおり。
「学校教育法第五十一条三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。」
しかし、この考え方は、小学校・中学校には出てこない。ここに日本の教育制度の根本的問題の一つがある。高校生になって批判的な力を培おうとするのでは遅すぎる。批判的精神は、物心ついた頃から、学びの根本的精神として培われなければならない。
子どもの権利条約にある意見表明権などの権利とともに、批判的精神の涵養が大事にされないと、政治や社会にアピールしたり、コメントしたりする人間は育たない。

批判的精神は、自己にも他者にも社会にも向けられる。自由に物事を考えるためには、全ての物事を検証するようなものの見方が必要になる。
子どもは、好奇心のかたまり。いわば、小さい子どもは批判的精神のかたまりのようなもの。多くの人は気がついていないのだけれど、大人は子どもの批判的精神の芽を一生懸命に摘みとっていることが多い。
小さい子どもの、なぜと思う疑問にしっかりと答えていけば、批判的精神は自然に身についてくる。子どもの中に人間の欲求として自然発生的に生まれてくるものが批判的精神だ。この精神を大切にして伸ばして行けば、政治や社会に関心をもつようになり、大人になったら投票に行く人間になる。
批判的な目で社会を見る人間を育てないと社会進歩はない。社会を批判的な目で見る人間は、当然社会体制に対しても批判的になる。社会に対しては従順に。同時に物事を見るときには批判的に。というのは一つの矛盾であり、なかなか両立しない。

日本の教育が、小学校と中学校で批判的精神を育てないのは、時の政権が体制を維持したいがためのご都合主義ではないだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明