何のために学校に行くのか

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娘は、朝2階からランドセルを背負って降りてくる。
朝7時25分に友だちが迎えに来て、5人で歩いて学校に行く。
何のために学校に行くのか。
もう少し大きくなったら、こういう疑問を投げかけてくるかも知れない。
「何のために学校に行くのだろうか」
その答えは、
「大学に行くため」
「いい仕事に就くため」
「一人前の社会人になるため」
「人間として豊かに成長し、自分の夢を実現するため」
というようなことでいいのだろうか。
でも、こういう答えをする前に、「学校はなぜ作られたのか」という問題に答える必要がありそうだ。
初等教育から高等教育までの近代的な学校制度が確立したのは明治時代だ。明治維新から数えてもわずか140年ぐらいしかたっていない。
教育制度の歴史を考えると資本主義の発展との関わりを考えざるをえない。
教育が権利として確立したのは、日本国憲法の成立をまつ必要があったようだし。
明治の教育は、国家の必要として成立したのではないだろうか。
近代化の流れの中で、資本主義の発展にとって必要な知識と技能を持った人間を育てる。これが最大の目的だったのではないだろうか。日本の場合は、さらに天皇の民草としての教育という側面も強かったように思う。
戦後、日本国憲法は教育を受ける権利や学問の自由がはじめて確立した。国民が自分自身のために学ぶという権利を確立してまだ63年しかたっていない。
学ぶことや学習することの自由を獲得したのは、せいぜい半世紀に過ぎない。このことは大事な視点ではないだろうか。
学ぶことの意味は、非常に豊かなので、語っても語り尽くせないし、ひとそれぞれ個性的なとらえ方で、学ぶことの意味を豊かに発展させることが大事なのだと思う。
学ぶことと人生をどう生きるのかということは、非常に深く結びついている。人生と結びあう学びは、個性的なものであり、学ぶことの意味は、人それぞれ、豊かで個性的な具体性をもつものだと思う。
大事なのは、学ぶことを豊かに語り合えるような環境が存在することだろう。
「なぜ学ぶのか」と問われたら、個性豊かな回答が返ってくるような環境が子どもたちには必要なのだと思う。
豊かに語れる人が少ないのが学びの貧困な姿を現している。
個性的な学びの根底には、しかし、次のような土台が必要だろう。
学んで事の法則を知り、法則を知ることで自然や社会や自分自身の主人公になる。そして自分自身の人生を自由に生きる権利をもつ。これは自己実現だといっていいだろう。人間と人間のつながりや関係を学び、人間社会をより良くする人間になる。このような社会的な人間として成長することも大切だろう。
人格の完成をめざすとした戦後の教育の目標は、自己実現と社会性を身につけた人間の育成という2つの事を内包していたように思う。
しかし、日本の教育には、政治と産業界の強い要求という側面も色濃く反映してきた。
このせめぎ合いの中に教育はある。
学ぶことが、本当に自己実現に直結し、学ぶほどに人間性が豊かになり、人間への信頼とともに社会性が身につき、まわりの人々と社会の問題なども語り合い、自然と社会との調和を探究して、社会の発展と改善を求めていく流れが確かなものになる。こういう時代が来るためには、それをはばんでいるものとのたたかいが必要になる。
人間への信頼とよりよい社会の探究。これを支えるのは批判的な精神だろう。教育の知的好奇心を支え、自己の成長を根底から支えるのもやはり批判的精神だろう。
「何のために学校に行くのか」
この問いは、汲み尽くせないほど大きい。


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Posted by 東芝 弘明