日本人の魂のふるさと。かつらぎ。

雑感

まちづくりの本について読み始めた。コミュニティデザインというものだ。
「ふるさとを元気にする仕事」(山崎亮著)
なかなか面白い。
人口減少=社会の衰退ということではないというのがよく分かる。日本は都市に8割の人間が住み、農漁村部に2割の人間が住んでいるという超アンバランスな社会になっている。大阪市に行くと人口減少社会という実感はわかない。大正区を歩き回ると間口の狭い三階建ての家がずらりと並んでいた。入口には、歩道にはみ出しかけている車が止めてある。こういう住宅事情を見ると、人間の住む町の窮屈さを感じる。かつらぎ町に帰ってくると庭付きの大きな家も多い。ゆったりしている。しかし、人口減少による衰退が目に見える。日本の都市偏重という傾向は、きわめていびつなものにみえてくる。
競走を煽るような社会風潮にのっかって橋下さんのように対立と競走が全てであるかのように言ってのける人が人気を博している。しかし、人間は、もっとゆっくりした生活を営み、広い空間を互いに共有し個人の幸福と社会の幸福を味わえるような生活を得られていいはずだと思う。
豊かさは自由になる時間と自由な人間関係と自由な享有空間によって形成される。夕方になると仕事を終えた人々が集まって、話し合いや文化活動やスポーツが始まり、生活の中に自然な形で文化がまとわりついていくというような社会になればいいと思う。
仕事にも働きがいがあり、打ち込めるべき誇りがあり、地域社会の活動にも楽しめる趣味があるというような生き方を求めて街をつくりたい。

田舎がこういう空間になり、文化を漂わせるものにならないだろうか。
かつらぎ町は、古くから神仏習合という文化の中にあった。日本には、日本古来の神道という自然崇拝に近い宗教があったが、中国や朝鮮から仏教が入ってきて、共存するようになった。互いの宗教を認め合いながら神と仏というような言葉にあるような穏やかな文化を形成していった。それは、漢字からひらがなが生み出されて日本独特の文化になったように、仏教にも変化をもたらした。真言宗にある位牌も先祖供養も、もともとは神道の教えだった。弘法大師は、神道の教えを積極的に取り入れて真言宗をつくり金剛峯寺にもきちんと神社をまつるというようなことをした。
外国の文化を日本に取り込んで、日本独特の文化に仕上げていく。ここには、日本人の魂の神髄のようなものがある。日本人の魂のふるさと。かつらぎとでもいえばいいだろうか。

かつらぎ町は、世界遺産の丹生都比売神社と町石道のある町だが、かつらぎ町の文化の中には日本人のあり方を示すような柔軟さがそのルーツとともに残っている。
ユネスコは、世界遺産に吉野・高野・熊野を認定するときに神仏習合に着目して、発祥の仕方も形式も教えも違う宗教が互いに尊重しあいながら保持されている姿をみて、これが実現したのは自然にあったとした。
ぼくたちは、こういう町に住んでいる。かつらぎ町の西の端にある高田地域が、飛鳥時代の畿内の南限だとされている。同時に紀ノ川右岸の比較的高台からは縄文時代の遺跡が出てくる。共産党の事務所のある佐野地域には、高野山より古い歴史をもつ仏教寺院(佐野廃寺)があった。
縄文から弥生へ、そして万葉の時代へ、さらに高野山に真言宗の総本山が開かれて以後もぼくたちの住むかつらぎ町は、紀の川の恵に支えられて生活を営んでいた地域だった。
こういう地域のまちづくりは、やはり人間の癒やしを求めるようなまちづくりに向かうべきではないだろうか。

この本を読みながら、こんなことを考えはじめている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明