無限ループの考え方

雑感

自分の考えたことに信頼できる「芯」のようなものがあるだろうか。
ぼくの場合は、あんまり迷いがなく、自分の考えを推し進める。どうどうめぐりのような自信のないことはあまりおこらない。いつから自分はそういう風になったのか。もともと、ああでもない、こうでもないと考えるようなことは小さい頃からなかった。生まれついての性質なのか、それとも堂々めぐりに陥らない考え方を知らず知らずのうちに身につけたのか。自分では判然としない。

「自分がどうすればいいのか、よく分からない」
つまり、こういう悩み方をしている人のことがよく分からないともいえる。
他人と話をしていると、「こうしたら」と投げかけると「でもそうしたらこうなる」といい、「じゃあ、こうしたら」というと「でもここが心配」という話が返ってくることがある。右から押すと左が飛び出し、上から押すと下が飛び出すかのように、話が延々と続いて、しまいには円を描くようになる。堂々めぐりがはじまる。
こうと決めたら、一歩踏み出してみたら、と思うのだけどそうはならない。

現時点で、全ての可能性を想像して思い描くことはできない。働きかければ変化が起こるので、その変化の中で次のことを考える。ぼくの思考方法は、こういう形になっている。動くことを決めたら動き始める。その中で考える。その中で、というのはつまり「変化の中で考える」ということだろう。
「ああでもない、こうでもない」と考えることのできる人は、ありとあらゆる方法を頭の中でシミュレーションできる人なのかも知れない。
ぼくなどは、こういう風にしか思えないので、こう動く、もしくはせいぜい2つぐらいのパターンを考えて、動いて確かめ、行動したパターンを修正して考えていく。「ああでもない、こうでもない」というような考え方ができないともいえる。

集団で考えている時に、「ああでもない、こうでもない」と思う人がいるのは、便利でもある。問題を投げかけられたら、自分では考えられていなかったパターンについて、考えるようになる。自分の思考の中にバリエーションが生まれる。堂々めぐりにつき合って一緒に考えれば、自分も幅の広い考え方が少しできる。ただ、堂々めぐりの人は、無限ループの中に入ってある種「満足」しているので、他の違った視点を受け入れることができない場合が多い。無限ループにつき合うのは、退屈な上にしんどいことでもある。

「どうしよう、どうしよう」と迷っている人への答えは、よし、自分で決めて一歩前へ進めということに答えがある。その一歩を踏み出す勇気がないので、入口で立ち止まって、できないことを理由に挙げて立ち止まっているというのが、迷っている人の多くの姿だろう。
間違ってもいいから、前に進む。
問題は、本人がどうやって一歩を踏み出すかだ。
「こうしよう」と言って、説得してしてもらっても、「東芝さんの言うとおりしてもだめだった」となって、アドバイスした人間が悪者になる。


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雑感

Posted by 東芝 弘明