作品受容について

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昨日から娘が熱を出した。妻も体調を崩している。
ゴールデンウイークでは、1日だけ山登りという計画だったが、ことわりの電話を入れることにした。
春休みも体調不良でどこにも行かず、ゴールデンウイークもおでこに冷えピタを貼るというわが家の姿となった。
外の気温は上がり、一気に初夏のような感じになったが、わが家の中は空気も涼しくひんやりしている。
世間とは違う日常もときにはいいものだ。
何が起こっても面白いと感じる気質がある。
お昼は、柿の葉寿司とざるそばを食べた。
「栄養のあるおそばにするためにとろろすったらどう?」
「栄養は昨日、法事でたっぷりとったからいい」
そういうと、妻から怒りの返事が返ってきた。
昨日は昨日、今日は今日らしい。
日本人は、栄養のとりすぎだと思うのだが。
毎日、ぼくはとんちんかんなことを言って、妻と娘から怒りの爆弾が落ちてくる。
毎日、撃沈するのも楽しいことの一つになっている。


閑話休題
さて、ここからは、作品受容についてという文章を書いておきたい。今日はこういうことも考えたということだ。
「作品受容」について
短編の小説を2つ読み、小説の書き方を解説した文章を読んだ。
小説を読むと小説が書きたくなる。心を動かしてくれるような文章に出会うと、同じような文章が書きたくなる。志賀直哉の文章に触れれば、志賀直哉のような文章を書いてみたくなるし、川端康成の文章に触れれば、そういう空気感のある文章を書いてみたくなる。
もちろん、書いてみても文章は足元にも及ばない。
志賀直哉のように人間の動きを鮮やかに表現できるような文章はなかなか書けない。人の心情を動きで表現する力は自分にはない。
小説には、小説独特の力がある。それは魔力のようなものだ。作品世界が胸の中に広がり、気分と感情が乗り移ってくる。自分の中に鮮明なイメージが広がり、その世界に浸っていたいと感じ、作品が投げかけてきた問いにしばらく自分の思いが向かう。
作品受容という言葉がある。小説、映画、論文の受け取り方に作品受容は関わってくる。虚構の世界を楽しむという受け取り方もあれば、自分の生き方に照らし合わせて影響を受けるという受け取り方もある。
ぼくは、さまざまな作品から、数多くのことを感じ取り、強く自分の意識を揺さぶり、新しい視野を開いていきたいと思っている。自分の生き方を考え直すものとしての作品受容、これがぼくの読み方だといえる。
1冊の本、1つの映画、1つの論文が人生を変えることがある。何気なく書かれている一つの言葉から、天による掲示のようなひらめきを与えてくれることがある。
たとえば──、それぞれの認識はすでに存在して自分の中にある。何気なく読んだたった1行の文章が、バラバラだった認識を結びあわせて、結晶のように形を整える。その時の感動は非常に大きい。一つの発見、自分の中でのコペルニクス的転換。こういうことがあるから新しい作品に出会うことをやめられない。
議員の活動としての質問の準備は、ぼくにとって発見の連続である。新しい発見は、いつも新鮮な感動を引き起こす。この感動が質問に生命力を与えてくれる。質問準備も作品受容と深く関わっている。
作品を通じて新しい視野を広げたい。そこには自分を夢中にさせてくれる発見がある。強く心を動かしたことは、やがて自分の血となり肉となっていく。
上手な文章に出会えば、書いてみたいと思い、真似をしたいという気持ちになるのは、作品を自分の生き方に引き寄せていることの証だと信じている。
作品によって引き起こされる自分を突き動かす衝動──それは、生きることに対する「手応え」なのかも知れない。


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Posted by 東芝 弘明