人間はみんな対等平等、基本的人権の中心はここにあり

出来事

7f1c9bc715f39ecafbfc95f73a447da1_s

午前10時から区長さんと議会との懇談会。ぼくが参加した班では、議会が議員相互の協議を行うことによって、議会で政策提案ができるようにという方向で努力しているという話になり、各地区に来て懇談するべきだという話になった。他の班では区長さんからのさまざまな問題意識や困りごとについて話が盛んに出されたようだ。

午後は、人権フェスティバル。子どもの絵と作文の表彰の後、道上洋三さんの講演が行われた。阪神タイガースの話もあったが、後半はしっかりヒューマンな話をしていただいた。「人権というと優しさとかいたわりとかいう話になるが」といいつつ、東日本大震災で神戸にある高校の震災科の生徒たちが被災地に行って体験したことを話された。自分で感じたこと、肌で感じたこと、体験したことをつぶさに書けという高校の先生の指導に目頭が熱くなった。上から目線ではない対等平等の人間としての関わり方が、本当の人間の絆だという話だった。自分で感じたことをまわりの人に話せ、そのことを伝えよ。それが絆だという話は、本当の人権とは何かを伝えてくれていた。

鎌田實さんの「1%の力」という話も紹介された。介護をする人は、私しかいないという思いの中で120%の力を注いで倒れてしまう。そうではなくて、まわりの人や介護の施設に1%でいいから頼って介護をすべきだという話だった。1%が重なっていけば、20%、30%という形に広がり、それで倒れないようになるという話だった。ここにも人権につながる話があった。

基本的人権というのは、すべての人が対等平等の同じ人権を持っているということを意味し、お互いに尊重し合うということによって成り立っている。基本的人権が成り立つためには、社会全体が個人の基本的人権を保障するために支え合うことが必要だ。
もちろん公的なサービスの充実によってこそ守られる人権がある。教育や医療、福祉や介護の制度、社会的なインフラ等々は、究極のところ国民主権と基本的人権を守るために存在している。小泉改革以来強調されている「自己責任論」というのは、社会との関係を断ち切り、孤立を求めるような側面を持っている。これは、人間の連帯を断ち切るものの見方考え方であり、基本的人権が社会的な制度によって保障されることを見ないものの見方にもつながっている。

国や自治体が住民の面倒を見てきたという言い方は、根本のところで間違っている。国も地方も、国民主権を実現するために存在している機関だという点からいえば、自治体や国は、主権者である国民に奉仕する機関であり、国民主権と基本的人権、もう一ついえば恒久平和を守るために存在している機関だ。面倒を見るというのは、極めて上から目線のものの見方であり、今の時代行政にばかり頼るべきでないという言い方は、「国民よ、もういい加減にしてくれ、われわれにはもっとやりたいことがある」というような傾向をもつ。このようなものの見方は、国民の上に立つ機関というものを作るような発想でもある。

介護を社会問題だとしてとらえる視点は、「まずは1%でいいから依拠しなさい」という考え方を強く含んでいる。それは社会運動も同じ。えてして人のために力を尽くしている人の中には、自分の問題となると他の人に依拠しないで自分で解決しようとする人もいる。自分にもそういう傾向はありはしないか。他の人の力を信頼し依拠して、一緒に動くことが大切になる。

道上洋三さんのお話しは、「人間は対等平等なんだよ」という考え方が根っこにある話だと感じた。能力や社会的地位や立場なんて本当は何にも関係がない。今年の初めにいっしょに運動する相手をリスペクトしようという話があった。リスペクトの根底にある考え方の芯は、人間の基本的人権は対等平等だということだ。この考え方が深く広くあってこそ、相手をリスペクトできるのだと思われる。
能力主義に毒されている人は多い。相手よりも自分が上などというのは思い上がりなのではないか。
同じ人権、同じ命の価値、人間の尊厳。この考え方を自分の中に培わなければならない。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

出来事

Posted by 東芝 弘明