笠田中学校卒業式

出来事

笠田中学校の卒業式に来賓として出席させていただいた。毎年、こういう機会を与えていただいていることを感謝したい。中学校や高校の卒業式には、まわりの人々への感謝の気持ちや惜別の潔さのようなものを感じて心が洗われる。

あいさつの中に「夢と希望で一杯だと思います」という言葉があった。
この言葉を実感として受けとめている卒業生は多いと思われる。この言葉に触発されて教育のあり方についていろいろな思いが浮かんできた。ただし、この思いは妄想に近い。

「学ぶということは、あなたの幸福と直結しています。あなたが学ぶことは、あなたの能力を伸ばして、あなたを豊かにします。同時にあなたのなりたい職業に真っ直ぐにつながる力となり、夢と希望を実現する力になります」

こういう言葉を文字どおり発することのできる世の中になっていない現実の中で、学校の先生方が、胸を張ってこう言いきれるような世の中を作れないものかなと考えた。
日本国憲法には、国民の三大義務が規定されている。それは、(1)保護する子女に普通教育を受けさせる義務(26条2項)(2)勤労の義務(27条1項)(3)納税の義務(30条)だ。
勤労の義務は、「千と千尋の神隠し」に具体的に描かれている。千尋が湯屋「油屋」を経営する湯婆婆に初めて会ったときに、「働かせてください」という言葉を言い続ける。すると湯婆婆は、「仕方ないね」と言って雇用契約を結ぶ。勤労の義務というのは、働きたいという意志を明確に示せば、雇ってもらえるということを意味する。しかし、日本の現実はそうなっていない。働き手の自由な意思で雇用してもらえる職業は日本でも少しばかり存在している。医者や看護師はその一つの例だ。でも、多くの就職は、思いどうりにはいかない。

勤労の義務を保障するためには、人間の能力を伸ばすための教育体制と、伸ばした人間の能力を活用する社会の体制が必要になる。このような仕組みは一気に実現するものではない。でも、このような国を作るために努力をすべきだと思う。このような国ができたら、「学ぶことはあなたの幸福に直結しています」という教育が実現する。
日本の教育は、高校や大学の入学に選抜という名の競争を組み込んでいる。しかし、世界を見渡すと先進国でも必ずしも入試という入口で競争を強いていない国もある。
国家資格をもっと価値のあるものにして、その資格を得れば独立開業ができるようになったり、その資格を得れば必ず雇用の道が開かれたりするようになれば、「学べば願っている職業に就ける」という道が開かれてくる。資格の必要のない職種でも高校や大学を出ていれば、国が定めた学力の水準にあることを国が保障するということになっていれば、安心して雇用できるという仕組みに転換すれば、入試という入り口における選抜を廃止できる。よく言われるようにアメリカの大学のように入学はしやすいが、卒業は難しく、卒業するためには真剣に学んで知識や技能を取得しなければならないということにすれば、「夢は実現する」という道が開かれる。

アメリカの大学入試は、書類審査のみで入学試験というものはない。高校の学校の総合評価によって、大学入学を決めることができる。また大学に行ってから専攻を決めてもよく、他の大学への編入も自由に選択できる。大学で得た単位の修得が他の大学に行くときにも総て引き継がれる。こうなってくると○○大学を出たということが注目されるのではなく、大学で何をどう学んだのかが注目されるようになる。アメリカの大学は、定期テストが重視されている訳ではなく、単位修得が重視され、日々の学習が学生の自主的な学びによって成り立つような仕組みになっている。学業の判定は、4段階で行われ、2.0未満という判定が出ると警告が与えられたり、退学させられたりする。日本の大学がほとんど退学させないのとは大違いだ。
大学生の生活の中心は、学習におかれている。また、カルチャースクールから大学への道も広く開かれており、外国人であっても英語を習得し一定の学習水準に達すれば大学に入学できるという仕組みを持っている。
それでも、アメリカの大学の仕組みは歪められてきた。20年ほど前は70万円だった授業料は150万円から200万円、一番高いところでは700万円を超えるようになった。また、大学を卒業しても就職が実現しないという傾向も露わになっている。これは、フランやドイツとは考え方が全く違う。

人間の能力を伸ばすための教育をかなり実現しているアメリカでも、学んで得た知識や技能を生かす社会を実現するという点は、かなり病んでいる。高額の大学授業料を払うために多くの大学生は学生ローンを借り、多額の借金を抱えて卒業し、就職の夢を実現できず生活が破たんするという現実に直面している。
日本では、選別の教育が基本となり、就職も徹底した選別によって成り立っているので、人間の能力を生かす教育が歪められ、それによって子どもの成長も歪められて、若者の能力が生かせないのが日本の特徴だろう。競争教育によって、子どもが小さい頃から豊かに育むべき人間関係を形成できず、コミュニケーション能力に課題を抱えながら10代を過ごし、地域との関係を断ち切られるようなクラブ漬けや塾漬け、習いごと漬けの生活を強制され、そういう生活にも入れない子どもたちは取り残され、疎外感を感じている。
学校は、社会の縮図であり、子どもたちはまず学校という「社会」に入り、そこで先生と出会い友だちを作ることによって、人間社会を学ぶ。中学校のクラブ活動もその一環だろう。同時に学習を通じて人間的成長を保障し、人格の完成をめざすために日本の学校は存在している。しかし、徹底的な競争の中で、人間関係形成にまで歪みが生じ、子どもたちから地域における生活を奪い、コミュニケーション力にさえ課題が生じるという事態が生まれている。
受験という仕組みがなくなれば、弊害はかなり除去される。アメリカのように入試がなくなれば、高校生の転入も簡単に実現できるようになり、他の大学への転入も可能になる。国連の子どもの権利委員会は、日本の教育の危機を深く把握して、日本の教育に対し改善を勧告しているが、日本政府はこの勧告をほとんど無視している。

笠田中学校の卒業式に出席しながらこういうことを考えていた。
日本国憲法に基づく国づくりということを探究していけば、何をどう変えるべきなのかというものが見えてくる。教育全体が、学問の自由を保障し、個人の尊厳、個人の幸福の追求権を最大限保障して、基本的人権とともに、その人権を生かすための公共の福祉に反しないかかぎりにおいてという調整の仕組みを生かして運営されるようになれば、相手の人権を保障する相互尊重の精神も培われていく。教育の基本に競争ではなく、本当の学びと学びによる成長と喜びが保障されるようになれば、キャリア教育ももっと生きたものになる。受験競争の弊害がなくなれば、子どもたちは、のびのび遊び学ぶことが保障される。地域に親と子ども、地域人々との交流も再生される。
こういう改革と合わせて、労働時間の抜本的短縮が実現すれば、地域での活動が極めて多彩に豊かに発展する。文化もスポーツも地域で花開き、地域活動の中には、ボランティアとともに共同組合やNPO活動が活発に行われ、さらに地域住民による経済活動も生み出されていく。

校長先生の祝辞の中に、「お子様たちが生きるこれからの時代は、変化の激しい、混沌とした時代になることは間違いありません」という言葉があった。教育者が、こういう言葉を子どもたちに贈らなければならない現実が日本や世界にある。混沌とした世の中になっている現実に対して、立ち向かって、もっとよりよい社会になるように、少しでも努力したいと思っている。それは、ぼくたちのような大人の責任だと思われる。議員は、よりよい社会を作るための責任の一端を担っている。

保護者の言葉に「人生での努力は裏切らない」と書いていた方があった。こういう言葉が語れる世の中になっているという側面も存在している。多くの若者が自分の将来の夢を叶えるために努力をしている。その結果として、夢を叶えて希望の職業に就いた人もたくさんいる。
「人生での努力は裏切らない」
という言葉が、現実味をもって語れるようになったのは戦後のことだった。戦前は、あの戦争の中で国民の生命と財産が翻弄され、日常を大切にして小さな幸せを実現したいという願いでさえ守ることができなかった。子どもたちに希望を語るためにも、未来を語るためにも平和であることが何よりも大切だということを考えざるをえない世の中になりつつある。

教員が、安保法制に対し反対を唱えることが、はばかれるような国になりつつある。しかし、この法律の施行によって南スーダンに自衛隊が行き、戦闘行為が行われている現実に直面している。憲法9条違反が進行している。戦争は、国家の行為によって組織される。国家によって組織される戦争に対して、国民主権をもつ私たちは、異議を唱えなければならない。教育者が、国民主権を持つ者として、平和を守るために安保法制は廃止を語れない教育といいうのは、国民主権に国家が制限をかけているに等しい。教員が国会を通過して成立した法律に対し、異議を唱えて教えることは、公平・中立性を欠き、偏向した教育になるという主張が成り立つ。主権者の手に教育を取り戻して、小学校や中学校で憲法の平和的生存権を教えることのできる教育を取り戻す。そのためには、現行憲法を国の最高法規として守り生かす必要がある。法律はこの憲法と矛盾してはならないという原則を守らせる必要がある。そのためにも安保法制は廃止されなければならない。そうすれば、憲法を守りぬく意義を語り、現行憲法の深い内容を教えて、国民は国家の手を縛るためにこの憲法を手に入れたことを教える教育を実現できる。

「人生での努力は裏切らない」
という言葉は、平和という土台があってこそ生きてくる。卒業式に際して、こんなに理屈っぽいことを書いたのは初めてだ。

祝辞や送辞、答辞、卒業の歌を聞きながら、目頭が熱くなった。
卒業式の来賓控え室の部屋でぼくの横に座ったのは、子どもたちが「森の熊さん」と呼んでいた先生だった。「森の熊さん」は、いつしか校長先生になっていた。輝いた目は消えていなかったし、優しい笑顔は昔のままだった。
「M先生を呼んで飲み会をしましょう」
この約束を果たせないまま時間が過ぎている。
卒業式が終わり、控え室に戻ってコーヒーを飲みながら、ぼくが感じたことを聞いてもらっていた。感想の押し売りだった。
別れ際、森の熊さんは嬉しそうに笑っていた。
風の強い、少しずつ寒さが増してくるような日だったが、お日様は春の訪れを告げていた。卒業式には、潔い別れの感じが漂っている。
惜別と離別。潔さを支えているのは、未来に向かう希望だろう。


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出来事

Posted by 東芝 弘明