レジメを作ろう

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午前中人と会い、午後1時に土砂が崩れた現場に立ち会い、午後1時30分から学校給食運営審議会に出席し、終わってから学校保健安全委員会に出席し、そのあと校長先生に改築の状況を見せてもらった。
現在、午前1時。夕食後眠ってから12時に起きてシャワーを浴びて、明日のレジメを仕上げる作業を始めるところ。
資本主義の恐慌論をまとめる必要がある。恐慌の可能性とその可能性が現実性に転化する条件、およびその必然性についてまとめる必要がある。
ここんところ、不破哲三さんの本をとっかえひっかえ読んでいる。マルクスの歴史の中でマルクスを読むという読み方を通じて、錯綜していた諸問題の謎が解けて、新しい見地が切り拓かれていくそのさまは、読んでいて心地よい。
これに対し、ネット上にある不破哲三批判は、マルクスの一時代の言説にこだわって、不破氏の解釈は、マルクスの理解として正しくないというものが多い。
しかし、この批判の仕方の方にこそ、違和感を感じる場合がある。
マルクスの膨大な論文の中で、具体的な言説があったからといって、それがマルクスの最終的なものだったのかを見ていくことが必要になる。
多くの人の本がそうであるように、その人の論説が、終始一貫していることは少ない。事物を研究している人の場合、研究の成果を本の中に残そうと思えば、過去の研究から論説が発展していくのは当然のことになる。マルクスとエンゲルスの残した全集も、不断の研究の成果の反映だったのだから、若い時代のマルクスと研究が成熟して以後のマルクスの言説とは大きく異なっている。
マルクスの歴史の中でマルクスを読むというのは、マルクスの研究の発展過程を丹念に把握しながら、それぞれの研究テーマがどのように深められ発展してきたのかを読み取るという作業だ。
こういう研究によって、明らかにしてきたマルクスの論説に対し、ある時期のマルクスはこう言っていたから、不破氏の解釈は間違っているというのは、そもそも議論がかみあっていないといえるだろう。
不破さんへの建設的な批判をおこなうためには、同じようにマルクスの歴史の中でマルクスを読むという態度が必要になる。そういう立場に立って、発展のプロセスを踏まえた上で、不破さんの解釈が間違っているという反論をしないといけない。
不破さんへの批判をよりよいものにするためには、やはり「肯定的理解とともに、同時にその否定」というものの見方が大事になるだろう。
マルクスの歴史の中でマルクスを読むというのは、マルクスの論説を弁証法的な見方でありのままにとらえるということであった。これは、「根本的にことに通ずる」ということと重なるものすごい努力と忍耐のいる仕事になる。論説の一断面を切り取って批判をするのは、木を見て森を見ないやり方であり、部分的な認識は、連関の中から抜き出された場合、それは完全な直線に転化するというたぐいのものだろう。
学びの道は、森の中の迷路に入っていくような側面がある。しかし、その入り組んだ森の中に入っていかなければ、発見も喜びもない。


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Posted by 東芝 弘明