科学的社会主義の講師を終えて

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何年ぶりか分からないほどの期間を空けて、科学的社会主義の学習会で講師をさせていただいた。
終わってから、夕方、学習会に参加した人から感想を聞かせていただいた。
経済学の所で説明が正確でなかったり、分かりにくかったという話が出た。
講師を務めると、ものすごく大きな刺激になる。準備にかける時間も半端じゃないけれど、たえず不十分さがつきまとうので、次の学習の契機になる。
ぼくの学習方法は、書いている本を厳密に一言一句暗記するように理解していくというものではない。物事の本質が深く理解されているならば、自分の言葉で自由闊達に語れるようになるはずだという考え方が基礎にある。しかし、この考え方には、ときに不正確さや不十分さが絡みついてくることがある。
科学的な概念規定というのは、多くの研究の成果によって、精緻に組み立てられてきたものであり、それを正確に理解してはじめて、自由闊達に語るということができるようになる。まずは、さまざまな概念の規定を正確に理解するという厳密さが必要になる。
厳密に理解することと自由に語ることは、ともに矛盾せず存立するということだ。
今日の指摘は、不十分さと不正確さに対する指摘だった。こういう指摘はありがたい。なんだか経済学の学習と史的唯物論の学習をさらに深めたいという気持ちが強まった。
問題意識が鮮明になり、意欲が高まってくれば、学習するときに地面に杭がグングン食い込むように理解が深まる。
もうすぐ議会が始まる。議会への準備、一般質問への準備をスタートする必要がある。質問のテーマをしぼって準備しなければならない。こちらの準備も、設定するテーマが定まり情報の収集をおこなっていくと、知的好奇心が高まってきて面白くなっていく。
身も心も設定したテーマに絡め取られながら、一生懸命に取り組むことになるが、今回の科学的社会主義への学習の意欲は、議会が終わった後も持続するという予感がある。
学びというのは、実践的なものだと思う。現実との切り結びの中に鮮明な問題意識があり、対象とするテーマに対して、広く情報を収集し本質に迫っていく努力をおこなっていけば、新しい発見、あらたな認識への到達が約束される。
50歳になっても知的好奇心がおとろえず、生き生きとした意欲をもっているということは、まだまだ自分の認識を発展させることができるということだろう。
議員というのは、たえず新しいことに挑戦できる位置にある。地方自治体は、国家の動きと深く結びついており、新しい問題がたえず発生している現場である。そこに身を置いて、一歩での二歩でも住民の要求の実現のためにがんばれば、自己の成長と認識の発展も保障されるということになる。
今年、6回目の当選を果たさせていただいた。住民の願いに応えて、自分のもてる力を発揮して努力することが、自分の成長への糧になる。ここには、深い充実感がある。


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Posted by 東芝 弘明