エッセイと小説の違いが分からない

雑感

ぼくのへたなエッセイと小説を読んで違いが分からないという返事が寄せられた。これは、その人の問題ではなく、違いが分からないような書き方をしたぼくに問題があったということだ。違いを鮮明にするような文章の書き方ができなかったところに問題がある。

論文を書き慣れている人が、自由自在にエッセイ風の文章を書けるとは限らない。小説を書くという点でいえば、実際に小説を書かないと上手にはなれないと思われる。文章というのは、書いてみないと上手くならないし、書き続けないとへたになるというものだろう。
そうそう、ノンフィクションによる徹底的な取材に裏付けられた文章の中には、舌を巻くような情景描写を実現しているものがある。論文のように物事を論じながらも、論考を支えているのは徹底的な取材と描写というものが、ノンフィクションの中にはある。こういう本はものすごく面白い。

外国から来たエッセイ(エッセー)を大辞泉で引いてみると、エッセー〖essay〗《「エッセイ」とも》とあり、意味としては、⑴自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想。⑵特定の主題について述べる試論。小論文。論説。とある。意味としては広辞苑も同じだった。つまりエッセイは、随想や小論文のことであり、物事に対して感じたこと思ったことを書いたり論じたりしている文章のことになる。したがって、ぼくがこのBlogで毎日書き連ねているものは、すべてエッセイと呼んでいいということになる。
しかし、日本ではエッセイを随筆、随想と訳していることが多い。随筆を広辞苑で引いてみると、ずい‐ひつ【随筆】見聞・経験・感想などを気の向くままに記した文章。漫筆。随想。エッセー。「―家」とある。日本の随筆には小論文というような意味はない。エッセイには小論文が含まれるが、随筆には小論文が含まれないということになる。ただし、実際の随筆にも小論文のような随筆もあれば、私小説のような散文もある。
日本の随筆に絞っていえば、エッセイ(=随筆)は、おそらく書き手の視点が自分自身であることを離れないところに特徴がある。私という言葉を使わなくても、視点が私から離れないのがエッセイだろう。

これに対して小説は、私という視点で書かれるものもあれば、神のような視点で物語を書く場合もあるし、特定の人物の心理描写を主人公の名前で描写するというものもある。つまり、小説というのは、作者がどの視点で、どういう方法で作品世界を展開するのか、という点で自由自在に書き方を設定できるというところに特徴がある。登場人物のものすごく多い大河的な作品を書く場合、主人公が全く体験しない場面を書くことのできる視点で書くのがいいかも知れない。特定の人物の視点から小説を書く場合、その人物がその場にいない場合、話を描くのに制約が出る場合もある。3人の人物の物語が糸のように絡まっていく場合は、それぞれ3人の視点で物語を展開させながら、3人が絡まり合って描く場合は、メインの人物の視点で描くなど工夫されているようなものもある。エッセイと小説の違いは、この視点のバリエーションの違いなのかも知れない。

もちろん、物事は、分けきろうとしても分けきれない。小説の中には、エッセイと同じ視点で書かれているものもあれば、物語の筋がはっきりしないものもある。わざと随筆と同じような書き方をしている小説もある。小論文風の小説もあるだろう。分けようとしても分けきれない現実があるということも知っておいた方がいい。

さて、昼から次第に曇ってきて、何時頃だったのだろうか、雨が降ってきた。役場の議会のある棟の第一委員会室からは、郵便局とその北側にある和泉山脈などが見えているが、昼からは白い雲のような、それでいて細かい雨のようなものが山を覆い始め、ある時期から本格的な雨になった。台風3号の影響だった。議会広報の会議が終わり、役場に残っていると6時前に警報が解除された。雨による被害もなく、役場の中はいつもと同じような落ち着いた雰囲気の中にあった。
「5時の時点で和歌山線が動いていなかったら迎えに来て」
朝家を出るときの娘の言葉が気になっていたが、その時刻前にネットを検索するとJRは通常運行されていた。5時を過ぎてからは雨があまり降っていなかった。

議会広報は、原稿の作成がすべて終わってデータの入稿という段階に入った。来週の会議は、版下による校閲に移る。


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雑感JR

Posted by 東芝 弘明