宣伝カーのバッテリー増強
伊都議員団で宣伝カーを新調した。と言っても25万円の中古を買ったものだった。スピーカー付の看板を載せ替えるためにルーフキャリアを購入し、アンプとコントローラーを積み替えてもらって宣伝カーを完成させていた。
が一応演説に行くと、音が大きくなったり小さくなったりするので原因がバッテリーにあるかも知れないという指摘を受けたので、オートバックスに行った。
購入したバッテリーをTさんに頼んで並列でつないでもらった。こういう作業は、いつもTさんにお願いする。困ったときのTさん頼み。これで電力不足はなくなったと思われる。固定するためにトレイを買い、バッテリーが転倒しないようにゴムバンドを買った。コンテナ固定は、両面テープで床に貼り付けるという方法を取った。両面テープは、Mさんが持っていたものをいただいた。
軽四のハコバンの宣伝カーの荷台にアンプとバッテリーを並べて置いている。バッテリーのプラスとマイナスの電極がむき出しになっているのだけが気になった。
ゴムのブーツのような物をかぶせたいな、と思っている。
ちなみに今回の音の強弱は、バッテリーが原因ではなかった。原因はマイクをつないでいる線にあった。ネットで検索するとマイクの接続線は、1700円ぐらいで手に入るようだった。今回は、使っていなかったマイクに差し替えたので、クリアな音が出せるようになった。
エッセイは軽いノンフィクション、小説はフィクションという感じで分けた方がいいんじゃないんでしょうか。短大の時小説書く宿題出されたことありますが、かなり苦戦しました。論文と小説はやっぱり違いますよ。
そうですね。エッセイはノンフィクションでした。ただし、もちろん本人の主観というフィルターを通したノンフィクションですから、正確には、書き手が事実だと思っていることについて書いていることでしょうね。
小説は、虚構を通じて真実に迫るというものだと思います。小説という手法でないと描けないものもあります。時代を写し撮る鏡という点でも、小説による描き方でなければ、明らかにできない真実というものがあるということですね。
少し話はずれますが、渥美清さんが演じた寅さんは、荒唐無稽の人物で、設定自体があり得ないものでした。流れ者のテキ屋なんて現実には存在しません。基本的に縄張りがあるので、トランクひとつで全国を股にかけて商売を行うなんて、具体的に考えたら全くあり得ない設定です。商品の仕入れはどうするのか、どうして自由自在に全国で商売ができるのか。寅さんというのは、全国どこでも名前の通った一人親方のテキ屋で、どこでも商売ができるだけの信用があるということになります。そんな人物はあり得ません。
根本的に夢物語的な設定ですが、「男はつらいよ」にリアリティがあったのは、寅さんのまわりで生きている市井の人々の姿でした。山田洋次監督は、寅さんのまわりの人々に徹底的なリアリティを持たせました。だから「男はつらいよ」の世界が成り立っていたのだと思います。
寅さんのトランクは、ずっと同じものが使われ、手渡される服は、必ず洗濯をして渡していたといいます。真っ新な商品を下着に至るまで使うことはなかったということでした。
小説も虚構であるがゆえに、徹底的にリアリティにこだわる必要があります。勿論そういうことにこだわっていない作品もありますが、社会的な事実をきちんと踏まえて書かれたものほど、作品が生きるということがあります。小説は、フィクションであるがゆえに、事実を重んじるという面白い構造を持っていると思います。