事実を見極めるために

雑感

最近の報道や報道に対するコメントを見ていると、違和感を感じる。
バス停を毎日1㎝ずつずらして行き、1m動かしても誰も気づかないというような誤魔化し方ではなく、明らかに政権の異常な発言に対しても、平気で擁護するところまでぶれ始めている。それでも、世間が騒がなくなりそれを受け入れつつあるように見えるのは、メディアが問題視しないからだろう。

安倍政権が、戦後最長を記録する内閣になったのは、メディアが問題を追及しなくなったからに他ならない。相撲界の不祥事は、執拗に追及し、貴乃花親方の処分に至るまで徹底的に追及しても、安倍内閣に不祥事になると腰砕けになる。菅房長官の舵取りがうまい訳でも何でもない。
メディアの追及のなさは、日本国の大問題である憲法改正にも鮮明に表れている。安倍さんは、国会の外では、メディアを活用して自分の考えを堂々と述べ、国民に直接影響を与えても、それは自民党総裁としての発言であり、内閣総理大臣のものではないとしている。この問題を国会で追及しても、総理は一切自分の考えを述べないで、憲法改正は「憲法審査会で議論していただく」とだけ述べる。このような子どもだましの立場の使い分けをしても、メディアはほとんど沈黙を守る。そもそも、内閣総理大臣である安倍さんが、自民党総裁として憲法改正の具体的内容について、読売新聞で自説を述べること自体、憲法を擁護しなければならない国務大臣としては、してはならないことだ。こういう視点での追及はほとんどない。
メディアが執念をもって安倍内閣を追及していれば、安倍政権というのは短命だっただろうと思われる。
戦後、戦争の反省から出発したメディアは、報道の観点の根底に憲法を置いてきたはずだ。この憲法を自社の報道の基本に置かないとしたのは、読売新聞だった。読売新聞の憲法改正案は、読売新聞による報道の基本原則に対して影響を与えている。
読売新聞は国民主権をうたっているが、国民主権と深い関係にある天皇について、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為を行い、国政に関する権能を有しない」として、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」という規定から「のみ」を削除している。その上で「国を代表して、外国の大使及び公使を接受し、また、全権委任状及び大使、公使の信任状、批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること」という文言を加えて、日本国の代表が天皇であることを書き加えている。ここにも国民主権を弱める考え方が現れている。
読売新聞の憲法改正案は、憲法を守る義務を公務員に課しておらず、「この憲法は、日本国の最高法規であり、国民はこれを遵守しなければならない」と全文に書いて、国民に憲法を守る義務を課している。まずここに大問題がある。日本の一番大きな新聞社は、現代憲法が大原則にしている立憲主義というものを理解せず、国家権力の手を縛り国民の権利を宣言するという憲法の大原則を踏み外している。国民主権をゆがめるこの考え方は、憲法改正手続きにも現れ、憲法は国民投票によって改正を成立する道と国会議員の3分の2の賛成によって成立する道の2つを用意し、しかも内閣が憲法改正案を国会に上程できるようにしている。
地方自治については、団体自治と住民自治によって成り立っている地方自治の本旨という言葉が削除され、「地方自治は、地方自治体及びその住民の自立と自己責任を原則とする」という言葉に置きかえられている。これでは住民自治という考え方が消える。国民主権を徹底して貫くためには、地方自治体における住民の主権を支える住民自治という考え方を据えなければならないのに、読売新聞の憲法改正案にはこの視点がない。
こういう仕組みのもとで、憲法9条に手を入れて、9条2項をなくし、「日本国は、自らの平和と独立を守り、その安全を保つため、自衛のための軍隊を持つことができる」とし、さらに国際協力の項を起こし、緊急事態条項の規定を盛り込んでいる。この立場は、自民党憲法改正草案よりも穏やかだが、基本的にはかなり親和性を持ったものになっている。

こういう憲法改正観を確立している読売新聞が、内閣総理大臣であり自民党総裁である安倍さんに対して、憲法改正について堂々と語る機会を与えたのは、読売新聞としては当たり前のことだったのだろう。
他のメディアは、読売や産経新聞が政権になびく中でなし崩し的に体制擁護の動きを強めてきた。最近の事例では慰安婦問題で誤った報道を行った朝日新聞を徹底的に批判し、あたかも朝日新聞の慰安婦報道が、誤った報道によって全て成り立っているかのような印象を与えた。その影響を受けて、教科書からは慰安婦の記述がなくなった。

すでに言論統制は、始まっており「大本営発表」のような仕組みが構築されつつある。メディアは、安倍内閣にとって都合の悪い事実を描かなくなりつつある。次に待っているのは、起こっている事実に対して、事実を歪めて描くということだろう。北朝鮮と韓国との話し合いがオリンピックを通じて始まっているが、事実をどのように報道するのか、いったい事実がきちんと語られているのかを見定めないと、単なる憶測、単なる思い込みによる報道が積み重なってあたかも事実であるかのようなイメージが振りまかれている。

情報化の時代で重要なのは、それが果たして事実なのかどうかだ。事実を真っ直ぐに見つめる目が何よりも重要になっている。全ての国民は、第1次資料に目を通せる立場にない。しかし、それは当たり前のことだ。全ての情報の第1次資料に接することなど、総理大臣にさえできない。全ての出来事に対し当事者になることはできないので、メディアを通じて事実に接近するしか方法がない。
洪水のように押し寄せてくる情報に対し、何が事実なのかどうかを見極める上で、「しんぶん赤旗」が果たしている役割は小さくない。自分で物事を判断するときに、何らかのメディアを通じて情報を収集する必要があるときに、「赤旗」は極めて重要な視点を与えてくれる。一般のメディアにはない事実の提示と報道は、物事の本当の姿がどこにあるのかを考えるきっかけになる。

洪水のような報道が、権力の監視を放棄し、権力の言い分をたれ流したり、権力の視点で事実を歪めて報道しようとしているときに、権力に立ち向かい、事実がどこにあるのかを明らかにしようとする姿勢は、「赤旗」以外にも存在している。それらを見極めるためにも、新聞という形をとっている「赤旗」が1つの指針になる。多くの心あるジャーナリストや研究者が、「赤旗」との関係を結んで、共同戦線を構築している。多くの専門家の意見が「赤旗」に掲載され、「赤旗」の報道に幅の広さと柔軟な視点が生まれている。
これがいい。
事実によるものの見方、考え方を自分のなかに培うために「赤旗」を広めることが重要になっている。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明