町長は憲法第9条を守るのか?

雑感

長文を掲載します。昨年の12月会議の一般質問の議事録です。
新町長は、戦争とポツダム宣言、日本国憲法と第9条についてどう考えているのか。町長が私の質問に答えているのでぜひお読み下さい。

東芝  発言通告に基づいて、一般質問を行います。今回の質問は、中阪町長に対して、満州事変からアジア太平洋戦争に至る歴史認識を問うとともに、その戦争を経て実現した日本国憲法の意味と憲法第9条についての考え方を率直にお聞きするものです。まず町長にお尋ねします。「過去から何を学ぶかで、現在と未来は大きく変わる」─これは明治大学文学部教授の歴史学者 山田朗さんの言葉です。歴史から学ぶ意義を町長はどうお考えでしょうか。
町長  歴史から学ぶということは大変重要であると、そのように考えております。

東芝  意義については共有できると思います。第二次世界大戦の評価について、学術的には日本でも決着がついています。しかし政治的には決着がついていません。最近では、歴史修正主義という流れが強まっています。第二次世界大戦を体験した人が10%程度になったもとで、日本による戦争は正しかったというような主張や、南京大虐殺はなかった、慰安婦は捏造だ、日本はアジアを解放した、植民地にもいい面と悪い面があった、というような言説が盛んに行われています。
 このような言説を流布する一つの目的は、歴史の相対化にあります。歴史的な事実を全否定することは極めて困難なので、どちらが正しいかよくわからないという状況をつくって、歴史を歪曲するところに一つの目的があります。
 歴史をゆがめる最大の目的は、日本国憲法の改正にあります。国民主権と基本的人権、恒久平和、この三原則は、日本の歴史と伝統には合わない、これを変えなければならないという政治勢力が台頭しています。こういう状況のもとで、政治家がどのような歴史認識を持つのか、これは極めて大切な今日的課題になっています。こういう認識のもとで具体的に質問をいたします。
 資料の1ページをごらんください。ここに質問の問いが書いてあります。同時に2ページ以降の資料が、かつらぎ町の中学校で現在使われている歴史教科書であることを示しました。きょうの質問は、この歴史教科書を使ったものになります。日本の歴史教科書は、日本の戦争の記憶を資料として国民に伝えるものです。採用された教科書は、国民共有の記憶だと思います。
 それで町長にお尋ねしたいんですけれども、この議場の中で第二次世界大戦を体験した人というのは、もう誰もいなくなりました。今、中学生が学んでいるという点で、これ2年生の教科書ですから、14歳、その親の世代は40代がほとんどだと思います。それでその親のさらに親、中学生からいったらおじいちゃん、おばあちゃんになる人々も、70代がほとんどだと思います。
 ということは、ほとんど今の中学生から見たら、戦争体験を持った人が身内の中にはいないというような状況になってきています。その中で、この歴史教科書の中から国民が何を学ぶのかということが、極めて大事な意味を持ってきていると思うんです。その点についてどうお考えなのかお示しください。
町長  教科書というのは当然ながら教育に使われているわけですから、これは当然ながら教育の観点から言っても当然大切なものであると、その認識についても書かれていることが、基本的には正しいという認識は持ってございます。

東芝  この基本的には正しいと思っているというところで、質問を前に進めたいと思います。
 資料の2ページをご覧ください。まず日本の進路を変えた満州事変ということで、満州事変の項について書かれています。1931年9月18日、関東軍による南満州鉄道の爆破によって引き起こされた満州事変を起点として、満州と呼ばれる地域を制圧して、満州国をつくったことが教科書の中に簡潔に書かれています。
 町長にお尋ねします。満州事変から満州国建設までの戦争を日本の侵略戦争と捉えているかどうか、お答えください。
町長  満州事変から15年戦争とかとよく言われたりする戦争のことをお尋ねだと思うんですけれども、この満州事変につきましてからということで、日本においては国際協力とか軍縮政策を進める政府と交渉による解決ではなく、武力をもって相手を屈服させるということを主張する、軍部の激しい対立があったということ、そしてそういうことから中国における権益を中国が取り戻そうとする動きが強まってくるということに対抗して、軍事力によって満州の主要地域を占領したというのが、個人的ではありますが、そういう認識でおります。

東芝  侵略であったかどうかお答えください。
町長  どこまでを侵略というふうに読み解くのかというのは、私の浅い知識では難しいところがありますが、結局占領したということは、侵略したという言葉に近い意味を持っているのではないのかなというふうには理解はできます。

東芝  私は戦争が終わって15年たって生まれた人間です。1960年生まれ、町長が3学年下なので、恐らく戦争が終わって17年か18年たって生まれた世代、ですから私たちの父親というのは、例えば私の父親の場合は、戦争が終わったときに24歳で軍人の経験を持っておりました。それで生きて帰ってきたんですけれども、酒を飲んだら軍歌しか歌わないと、子供にも母親にも暴力を振るうということで、ずっと頭の中は戦争だらけというような状況でした。
 それで中国戦線では、偵察隊ということで、斥候という任務を持って、真っ先に占領した地域の偵察に行って安全を確認すると、こういう仕事をしていたそうです。私が6歳のときに父は酒を飲んで死んだんですけれども、14歳上のいとこには、自分は中国人を何人殺したかわからないというような証言をしておりました。
 それで私たちの世代は、こういう親の世代から戦争について体験を聞けた最後の世代かもしれません。しかし歴史を深く理解しようと思えば、歴史的な文献から学ばなければ、戦争の記憶を受け継ぐことができない、そういう世代に私たちは属しているというふうに思います。
 日本が侵略戦争によってつくった満州国には、国民の資格も権利も義務も明確に定義はされていませんでした。憲法も戸籍法もなかったんですよ。そういう国として、満州国は戦争が終わるまで、ほぼ15年間、1932年から45年ですから15年弱続いてきたということです。
 3ページをごらんください。ここに書いている文書が次の設問なんですけれども、この設問に入る前に、日中戦争についてお尋ねをします。資料が多くなるので、日中戦争については割愛しました。したがって、言葉で少し説明をいたします。
 日中戦争の出発は、1937年7月の盧溝橋事件から始まります。この事件をきっかけにして始まった戦争を、当時の日本政府は、事件の少し後に閣議決定を行って、支那事変と名づけました。事件の発端は、日本軍と中国軍の小さな戦闘でした。
 最初は、現地で停戦協定が結ばれ、日本と中国はともに戦局を拡大しない、こういう方針をとりました。しかしこの協定に反して、日本は同時に軍隊を増員しました。これが7月です。それで8月、上海事変が起こって、日本と中国の全面戦争の様相を呈するようになり、同じ年の12月に日本軍が南京を陥落しています。この中で起こったのが南京事件でした。
 日中戦争の動機は、満州国のすぐ下の華北地方の分離にありました。この戦争は宣戦布告なき戦争でした。背景には、アメリカやイギリスによる中国支援がありました。宣戦布告をすれば、アメリカの中立法によって貿易を打ち切られるおそれがありました。
 町長にお尋ねをします。満州国を足場にして、中国から華北を分離しようとして引き起こした日中戦争を日本による侵略戦争だと理解されているかどうか、お答えください。
町長  満州を支配下におきました日本は、資源の多い中国北部も勢力権にしようと工作をし、中国との対立を一層強めたという認識、そして抗日運動の激しさが増す中で、盧溝橋で両軍が衝突する、その後停戦協定が結ばれたのにもかかわらず、戦線を広げ、首都南京を占領、中部まで軍隊を侵攻させたという認識は持ってございます。
 そして関東大震災、金融恐慌、昭和恐慌による慢性的な不況による閉塞感を打破するものとして、満州事変は多くの人々に支持をされ、以降軍部の力は強まっていったという認識も持ってございます。さらに盧溝橋事件以後、勢力圏の拡大を考えた軍人も多くなり、戦禍を広げたという認識は持ってございます。

東芝  侵略戦争だったかというのは答えないという感じですね。それでこの侵略戦争であった日中戦争は泥沼化してきます。原因は二つあると指摘されています。
 一つは、国共合作が起こったことです。中国国民党と中国共産党が内戦状態にあったんですけれども、これをやめて対日抗戦で共同戦線を張った、これが戦争が長引いていった一つの原因です。
 もう一つは、イギリスとアメリカによる中国に対する支援です。蒋介石を支援するルートは蒋援ルートと呼ばれました。国共合作と物資の援助によって、中国による徹底抗戦が行われるようになりました。中国は内陸部に首都を移しながら抗戦したので、日本は広大な中国で戦禍を拡大し続ける展望のない戦争を繰り返しました。この日中戦争の延長線上に、アジア・太平洋戦争があります。
 資料の4ページをごらんください。第二次世界大戦と日本、第二次世界大戦の始まり、こう書いてあります。このページは非常に大事なことが書いてあります。日本がアジア太平洋戦争に突入した直接の大きな動機は、ヨーロッパにおけるヒトラー・ドイツの侵略戦争にありました。ヒトラーはオーストラリアやチェコスロバキアの一部を併合し、さらにポーランドに侵攻して、イギリスとフランスとドイツの間で第二次世界大戦を起こしました。
 教科書はこう書いています。1940年になると、ドイツ軍はデンマークとノルウェー、続いてオランダ、ベルギー、フランスなどに侵攻し、6月にはフランスを降伏させました。日本にとってどんな意味を持ったかというと、ヒトラーがフランスを占領したことによって、日本はチャンスがやってきたという理解をしたんですよ。
 つまり、このチャンスをものにするために、日本とドイツとイタリアが、結んでいかなった軍事同盟を結んで、そして、この教科書の4ページの右の上のところに書いています。枢軸国と呼ばれた側と連合国側の方針について書いてあるんですけれども、三国同盟、何を決めたか、二つだけ紹介します。
 一つは、日本はドイツ及びイタリアのヨーロッパにおける新秩序による社会建設の指導的役割を認め、これを尊重する。戦争をやっていますから、ドイツによる侵略戦争によってドイツとイタリアが役割分担をして、ヨーロッパを制圧する。これを日本は積極的に認めたということです。
 二つ目は、ドイツ及びイタリアは、日本の大東亜における新秩序による社会建設の指導的地位を認め、これを尊重する。ドイツとイタリアは、日本が中国戦線からさらに戦禍を東南アジア、ベトナムまで拡大することについて、承認を与えると。つまり、この三つの国は、第一次世界大戦で領土が確定した後で、第二次世界大戦を起こして全世界を再分割すると、その約束をしたのが日・独・伊の軍事協定ということになったということなんです。
 それでフランスが降伏したことによって日本は何をしたかというと、フランス領インドシナの北部に攻めていったんですよ。フランスの植民地を今だったら自分のものにできると。そして同時に蒋援ルートを断ち切ることができると。これが日本が三国軍事同盟を結ぶ一番の理由になったんです。
 それで資料の5ページを見てください。アジア太平洋での戦争ということで、そういう状況のもとで日本はどんな認識にあったかというと、この戦禍の拡大をやっていけば、日本はイギリスとアメリカと衝突せざるを得ないという認識を1920年ごろから持っていました。
 ですから、今の国会と戦前の国会というのは全く違いますから、戦費の調達を日中戦争を行いながら日本の政府はやっていました。国会にかけることのいらなかった基金を積み立てていったんですよ。その基金の3割は日中戦争に使って、7割は次の戦争に備えていたんです。その中で起こったのが、アジア太平洋戦争だったということです。
 5ページの右側、太平洋戦争の始まりというのが書いてあります。1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地を奇襲攻撃するとともに、イギリス領のマレー半島に上陸を開始し、太平洋戦争が始まりましたと。
 それで日本はアメリカのハワイの真珠湾を攻撃した後で、宣戦布告をアメリカに対しては行いましたが、それよりも前にイギリス領のマレー半島に上陸作戦を行って、イギリスとの戦争を始めました。イギリスに対しては一切、宣戦布告をしなかったんです。こういう形で第二次世界大戦が始まりました。町長にお尋ねしたいのは、この第二次世界大戦というのは日中戦争の果てに日本が行った侵略戦争だったというふうに理解しているかどうか、お答えください。
町長  議員御発言のように、日中戦争が長期化していく中で、日本はアメリカなどが中国を援助するルートを断つということと、そして戦争を遂行するために必要な資源獲得のために東南アジアに侵攻したと。日本の動きに警戒を強めたアメリカを初めとする各国、これは経済封鎖を始めまして、さらにアメリカは石油の対日輸出を禁止したというふうに認識しております。
 戦争開始するために日米で話し合いを重ねたということがありましたが、アメリカの提示した条件をのむことはできず、領土の拡大、不可欠な燃料を得るために、アメリカとの戦争に踏み切ったというふうに見ております。
 欧米の支配を脱し、ともに栄えようというかけ声とは裏腹に、東南アジアや南太平洋の国々を戦争に巻き込んで、多大なる被害を与えたというような認識を持っているところでございます。

東芝  今、町長が答えた認識とこの教科書に書いている認識が一緒なんですけれども、この満州事変から始まって15年戦争と呼ばれるこの戦争の全体を通じて、日本はアジアに対して侵略戦争を展開したと、こういう全体の認識はお持ちでしょうか。
町長  先ほども、言い方の問題だとは思うんですけれども、侵攻したと、いわゆる武力を持って侵攻したということの認識があるというふうに思ってございます。
 したがいまして、それが侵略であったのかということは、ほぼイコールの話にはなるかと思いますが、私の認識としては歴史的な部分を読んだり、見たり、聞いたりという範囲の中の浅い知識で思うのは、侵攻した、武力を持って制圧した、侵攻したというような意味合いであるというふうに捉えています。
東芝  僕が高校時代というのは、ちゃんと侵略と書いていました。高校の教科書も中学の教科書も。最近、事実は書いているけれども、侵略戦争だったというふうに書かなくなったのは、政治的圧力によるものだというふうに思うんですけれども、僕らが大学時代に入って、侵略を侵攻とは書き改めていくということで、歴史教科書問題といってその当時世間では大問題になりました。それが1980年代だったと思います。
 しかし、どんなに書き方を改めたとしても、どんな言い方をしても、中阪町長が言ったように、武力を持って制圧をしたという戦争を日本がやったのは明らかで、それは学術的に言えば侵略以外の何物でもないんですよ。だから日本は侵略戦争をやったという事実は、どんなにひっくり返しても変わらないというふうに思います。
 それで満州事変からアジア・太平洋戦争までの15年間、日本は戦禍を拡大をして戦争に明け暮れました。それで日本による中国とアジア諸国に対しての侵略戦争だったと、私は思っています。アメリカとの戦争によって、太平洋の小さな島々が戦場となりました。アジア・太平洋戦争というのはそういうところから呼ばれているんです。
 日本にとって決定的な打撃を与えたのが、1944年7月のサイパン島の陥落にあります。この島にアメリカが大型爆撃機の基地をつくったことによって、1944年11月以降、日本本土への空襲が始まりました。日本の都市という都市が焼け野原になるような状況になって、1945年7月9日和歌山大空襲もその中で起こりました。
 資料の8ページをごらんください。1943年にイタリア、1945年5月にドイツが降伏をして、1945年7月26日には日本に対してポツダム宣言が発表されました。この教科書でもそう書いてあります。そして日本はこのポツダム宣言の受諾を行わず、この宣言を無視しました。その結果、広島と長崎に原子爆弾が落とされました。
 結局8月15日に、天皇陛下は玉音放送を行って、このポツダム宣言受諾の演説を行ったわけなんですけれども、第二次世界大戦の死者は6000万人を超えていると言われています。日本による戦争によって、アジア諸国民2000万人、日本人310万人が命を失いました。私たち日本人は、この歴史を受け継ぐ責任があると思います。
 資料の10ページをごらんください。今回の質問のために、和歌山県から資料をいただきました。この資料は和歌山県民で一体何人が戦死したのかということにかかわる資料です。起点は支那事変以降となっています。つまり中国への全面戦争以降、太平洋戦争が終わるまでに、一体和歌山県民が兵士として何人戦死したのかというと、その合計は3万6637人となっています。
 橋本市と伊都郡では、3298人となっています。これ以上の資料はわかりません。この当時、かつらぎ町は六つの町村に分かれていたと思います。妙寺町、笠田の町、大谷村とこういう格好で。けれども村ごと、自治体ごとの戦死者の数はわかりません。なぜかというのも明確な理由があります。
 当時の全ての役場には、兵事係というのがあって、徴兵検査の問題とか在郷軍人の名簿とか召集令状の記録とか、人間の命にかかわっている非常に大事な、戦争の全ての記録が市町村にあったんです。これを当時の政府は、1945年8月15日付をもって、全部焼却せよというこういう命令を下して、ほとんどの日本のこの資料は燃やされてしまっています。
 それで命にかかわるこの資料を、燃やしてはならないと思った人が10人ほどいて、例えば滋賀県のある村なんかでもこの兵事記録を燃やさないで、自分の蔵に隠して保存した例がございます。この資料が残っていたら、かつらぎ町で一体第二次世界大戦で、日中戦争で、何人の住民が亡くなったかというのは、全部もっと克明にわかったはずなんです。
 私の資料の11ページに、かつらぎ公園の戦没者忠魂碑「平和の礎」という写真と資料を載せましたが、これは1980年に有志の方々、中心になったのは、かつらぎ町忠霊顕彰会の方々です。この方々が寄附も集めて、この忠魂碑を建てました。この忠魂碑の中には、1044人の戦没者の名前が札として納められています。
 この1044人は何かといったら、1980年の時点で自己申告してもらった戦没者の数です。どこから始まっているかといったら、西南の役、明治10年、西郷隆盛が奇兵をして、日本国内で内戦が行われた、そのときに政府側として参加した人がかつらぎ町の中にもいたということで、そこからの死者が全部祀られていると。
 これが全ての亡くなった人の数を示しているわけではありません。日本政府というのは、本当に戦争が終わるときにとんでもないことをしたと思います。人間の命にかかわる極めて貴重な資料を、全部軍事機密だと言って焼却させたという、その罪は非常に重いと思います。
 その結果として、一体何人が亡くなったのか正確にはわからないと。和歌山県でも二重にも三重にも、軍人の記録というのは県のレベル、国のレベルでありますから、県のレベルでわかっているのは、伊都橋本で日中戦争以降亡くなった人の数と、こういうことにしかなっていないです。
 それで歴史から学ぶというのは、こういう資料も含めて学ぶことであるし、かつらぎ町がどんな状況のもとで戦争に巻き込まれたのかということを学ぶということも、町長が言っているふるさと教育の中の一つになると思います。本当に若い子どもたちが、自分の意志で自分たちの歴史をちゃんと学ぶことを通じて、その経験を未来に生かしていくということにもなってこようかというふうに思います。
 それで資料の9ページをごらんいただきたいんです。天皇の玉音放送によって、受け入れたポツダム宣言の全文がここにあります。これは国立国会図書館の電子データから引っ張ってきたものです。もともとは全部漢字と片仮名で書かれていました。読みにくいので平仮名に片仮名を変換させていただきました。
 幾つか紹介します。どういう目的でポツダム宣言が発せられたかというのは、4のところです。「無分別なる打算により、日本帝国を滅亡のふちに陥れたるわがままなる軍国主義的助言者により、日本国が引き続き統御せらるべきか。または理性の経路を日本国が選ぶか。」二つに一つだと。それでポツダム宣言を受け入れなかったら、徹底的にせん滅するというようなことも書かれてあります。戦争ですからね。
 それで6番目、「日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙にいずるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は、永久に除去せられざるべからず。」
 9番目に、「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営む機会を得らしめられるべし。」
 10、「我らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰加えられるべし。日本国政府は日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立せられるべし。」
 このポツダム宣言の実施のために、連合国総司令部、GHQが日本を全面占領したと。しかもこのGHQを構成していたのは、アメリカだったということです。
 町長にお尋ねをします。このポツダム宣言こそが戦後の原点になる文書だと思いますが、いかがでしょうか。
町長  GHQの基本方針と基本方針といいますのは、非軍事化及び民主化であると、そういう認識を持っています。
 GHQはポツダム宣言に基づきまして、日本国民は今後思想の自由、言論の自由、及び宗教の自由を抑圧せんとするあらゆる形態の統制から解放されねばならないという見解を表明し、五大改革指令を出されたということです。
 内容的には、婦人の参政権の付与などによる女性の解放、そして労働組合結成の奨励、教育の自由化、秘密警察などの廃止、経済の民主化とこの5項目となっており、第二次世界大戦後の混乱の中では、国民の貧しさから解放の願いや平和と民主主義への期待などを背景に、大きな改革による新しい日本の建設が次々に進められ、現在の日本の骨組みがこのときに形成されたと、そういう認識を持ってございます。

東芝  戦後の原点になるのが、このポツダム宣言だという認識はありますか。
町長  戦争が終わり、このポツダム宣言により、日本が平和国家として進んできたという認識を持ってございます。

東芝  一致していると思います。原点というのは覚えておいてください。本当にこのポツダム宣言の受諾によって、日本は大きく変わりました。小説なんですが、少しこのときのことを作家がどう捉えたかということを紹介したいと思います。
 8月15日、玉音放送を聞いたときに、『播州平野』という小説はこういうふうに書きました。
「そのときになってひろ子は、周囲の寂寞に驚いた。大気は8月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気に包まれている。が、村中は物音一つしなかった。寂として声なし。全身にひろ子はそれを感じた。8月15日の正午から午後1時まで、日本中が深閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大なページを音なくめくったのであった。」
この小説が描いたように、このポツダム宣言によって日本社会は大転換していきます。
 資料の13ページをごらんいただきたいと思います。日本の占領と非軍事化、民主化のところの右のほうのところなんですけれども、GHQのもとで政治が行われてこう書いています。「総司令部は日本政府に対して、婦人参政権の付与などによる女性の解放、労働組合結成の奨励、教育の自由化、秘密警察などの廃止、経済の民主化という五大改革を指令しました。また、日本軍を解放させ、戦争をおし進めた軍人や政治家の逮捕、裁判、職業軍人や国家主義者などの公職からの追放を進めました。さらに、治安維持法を廃止して政治活動の自由を認め、選挙法を改正して20歳以上の男女に選挙権を与えました。また、労働者の団結を認めた労働組合法や労働条件の最低基準を定めた労働基準法も制定されました。」こういう改革の中で、日本国憲法の改正が行われてきます。
 資料の14ページをごらんいただきたいと思います。平和国家を目指したということで、日本国憲法の成立というのが書いています。1946年1月、天皇が人間宣言を行って4月には戦後初の衆議院総選挙が行われました。こうした中で開かれた国会に、政府は憲法改正案を提出し、改正案は4カ月にわたって審議を経て可決されました。
 そして1946年11月3日に日本国憲法として公布され、翌年5月3日に施行されました。この日本国憲法というのは、大日本帝国憲法の一部改正として、帝国議会で議論されてつくられたものです。ですから、前の下村教育長も解説されたことがありますが、この条文のつくり方が全くそっくりなんです。第1章 天皇から始まるのも全く一緒です。
 なぜ日本国憲法にものすごく豊かな基本的人権の条項があるかというと、大日本帝国憲法をひっくり返したからなんです。大日本帝国憲法というのは、国民の権利を法律の範囲で制限をかけるという憲法でした。ですからそれをひっくり返すときに、非常に豊かな基本的人権の条項が生まれていったわけなんです。
 それでこの14ページの左の表のところを見ていただきたいんですけれども、どういうふうにひっくり返したかというのが対になって書かれています。主権は天皇から国民に移りました。それから戦前の国会の内閣総理大臣というのは憲法に規定がございません。内閣も憲法に規定がないので、戦争が始められたときに内閣総理大臣の承認なんかは要らなかったんです。
 実際に、東条英機は1941年のハワイの真珠湾攻撃を知らされたのは、12月1日に入ってからなんです。もう既に作戦は決行されていました。こんな状況だったんですが、戦後の国会は国権の最高機関ということで、ようやく法治国家の体制がとられました。それで基本的人権が確立をして、戦争については永久に戦争を放棄する、戦力は持たないという平和主義が確立をいたしました。
 そこで町長にお尋ねをいたします。この15ページを見ていただきたいんです。憲法の前文についての認識をお尋ねします。アンダーラインを引いたところです。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
この意味をどう理解されていますか。
町長  この書かれている15ページのアンダーラインのところについての御質問ですけれども、先ほどから議員御発言のとおり、議員が説明された14ページの表、これがもう本当に全てかなというふうに認識を持っています。そもそも国民主権ではなかったものが国民主権になったということ。そして平和国家という意味合いで基本的な人権についても、永遠に広く保障するというようなことが書かれておりまして、この憲法の精神というのは、本当に戦後の日本をつくり上げてきた中の大きな意味合いであり、この大日本帝国憲法から日本国憲法に変わっていく、このところの議論というのが、どのような議論があったのか詳細にはわかりませんが、ここに書かれた日本国憲法においてはそれを踏襲していると。
 平和主義について言及しますと、結局国民の主権ということが確立されたわけですから、国の政治を最終的に決定する権力が国民にあるということは保障されたということから、日本は今に至っていると、そのような認識を持っております。

東芝  憲法前文のここのくだりというのがいつも頭に浮かんでくるんですけれども、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように、つまり政府が、具体的には9条によって交戦権を否定していますから、戦争を行わないと、政府が戦争を行わないという決意をして、ここに主権が国民の存するというものが一つの文章の中に書かれているんですよね。
 つまり、政府が戦争を行わない。そして徹底した国民主権が実現したら、日本は再び戦争をする国にはならないという、そういう決意がこの日本国憲法の前文には書かれていると。その後に書かれているアンダーラインのところは、人民による人民のための人民の政治ということが、憲法の言葉で書かれているというふうに思っています。
 それでは、その横に憲法三原則を書きました。国民主権と恒久平和、基本的人権の尊重と。私はこの三原則は、不可分一体のものとしてからみ合って存在していると思っています。平和であってこそ、国民主権が保障される。平和であってこそ、基本的人権が保障される。国民主権と基本的人権が徹底的に保障されれば、平和が保障される。
 こういう形で三つの原則が成り立っていると思いますが、町長はどうお考えでしょうか。
町長  議員御発言のこの三原則においては、もう全くの同感でございます。

東芝  21世紀、この三原則をこれからも町長は守っていくべきだと考えているのかどうか、お答えください。
町長  日本はこの日本国憲法によって、今までやってきたという前提を踏まえた上で言うならば、今後においても国民主権は当然踏襲されるべきであり、また恒久平和、いわゆる平和主義ですけれども、これについても当然ながらそれを貫いていく。
 また一番大切な部門について、基本的人権が尊重される、これについても同様であると。ですから今後においても、この憲法大原則については大切であると、そのように考えます。

東芝  もう1点踏み込んでお尋ねしますが、基本的人権というのは、私たちがおぎゃーと生まれてから永久に保障された権利だというふうに理解されていますか。
町長  基本的人権というのは、今おっしゃっていただいたように、生まれてから亡くなるまでの間を保障されるものであると、そのように理解をしております。

東芝  それが日本の憲法の精神なんですけれども、憲法改正を求めている勢力が今何を言い始めているかというと、「私たちは天賦人権説をやめました」と明確に解説しています。つまり、国家の利益のためには、基本的人権というのは制限を受けると、それが日本の伝統だというような言い方をしています。
 とんでもない話だというふうに思っているんですけれども、そういう状況のもとでさらに町長にお尋ねをしたいと。憲法第99条のことです。99条は、15ページの一番下のところに書いているんですけれども、「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と書いています。
 それで立憲主義、立憲主義とよく言われているんですけれども、立憲主義の中心はこの第99条にあります。この99条をどう理解されているでしょうか。
町長  条文そのものから読み取れるというものについての認識というのは、大変薄い知識の中ではっきりとお答えすることができませんが、この条文を読む、またはこの条文の精神というのは、今、議員御発言のとおり、結局この憲法を尊重し擁護する義務を負う人たちのことを列記されているということでありますので、ここに掲げられている方々、国会議員、裁判官その他の公務員というようなこと、ほかにも書かれておりますけれども、こういった方々については、当然ながらこの憲法を尊重し擁護していく義務を負っていると、そういう認識でございます。

東芝  国民がこの憲法擁護の義務の中には入ってないんですよね。ですから、日本国憲法というのは現代憲法だと呼ばれているんですけれども、何が現代の憲法なのかというと、国民の権利を保障しながら権力者の手を縛ると、これが現代憲法の最大の特徴だということなんです。
 この99条の中に、国民が入っていないというのは、抜けたのではなくて、憲法を守らなければならないのは権力者であって、国民ではないという認識をここで示しているんですよ。ですから先ほど言った基本的人権も、真っ先に誰が守らなければならないのかといったら、権力者なんです。かつらぎ町で言ったら公務員なんですよ。公務員が国民の基本的人権を守るということが大前提にあって、国民同士が相互で尊重し合うという関係にあるということなんです。
 ですから、権力者が国民の権利を守り、それから自分たちは憲法によって制限を受けていると、憲法遵守の義務を負っていると、これで初めて国家の暴走を食いとめることができるというのが、日本国憲法の考え方なんです。
 最後に憲法第9条についてお尋ねをします。資料の16ページをごらんください。11月18日に全国首長九条の会というのが結成をされて、幾つかの新聞でその状況が伝えられました。それで東京新聞の記事を抜粋しました。兵庫県宝塚市長は、「現職の首長は声を上げにくいが、私は平和を脅かし憲法をなし崩しにすることには声を出してきた」というコメントをして、この結成総会で挨拶をしています。
 それで「赤旗」にのみ、全国首長九条の会の結成総会のアピールの全文が載ってあったので、資料として載せてあります。下の囲みだけ紹介します。「9条改憲が草の根で攻防に入った今、私たち首長九条の会は全国7000を超える地域、分野の九条の会と歩みをともにし、憲法9条の理念を高くかかげ、これを堅持し、実践することを目指して、地域住民の知恵と力に依拠して運動を進めたいと決意しています」と。
 自治体の首長が憲法を守ることは当然なんですけれども、憲法9条を守るということをアピールすることが、非常に社会的に大きな意味を持ってきていると。この中で、町長にも憲法9条に対する態度を問いたいということなんです。
 17ページをごらんください。中村哲さんがお亡くなりになりました。アフガンで灌漑事業を行い、井戸を掘り、農地をつくってきた方なんですけれども、私はこの中村哲さんの講演会が和歌山市内であったので、直接お話を聞いたこともございます。
 この方は、憲法9条を守るという態度を鮮明にしていました。医師である前にまず水が必要だということで、アフガニスタンで活動してきた人なんですが、言葉を少し紹介をいたします。「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた。アフガニスタンにいると、軍事力があれば我々が身を守れるというのが迷信だとわかる。敵をつくらず、平和な信頼関係を築くことが、一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は、日本に暮らす人々が思っている以上にリアルで大きな力で僕たちを守ってくれているんです。」ということで、この方は繰り返し憲法9条改正反対ということを身をもって唱えていた方です。
 日本が本当に積極的に平和的に貢献するためには、中村哲さんのような活動を前世界で展開するということが極めて大事だというふうに思います。アフガニスタンの政府は、中村哲さんがなくなった後、飛行機の尾翼に彼の顔写真をプリントして、飛行機を飛ばしています。
 そういう状況のもとで18ページをごらんいただきたいと思います。私は、溝端康雄町長、南衛町長、山本恵章町長、井本泰造町長に対して向き合って、率直に意見を聞いてまいりました。溝端康雄さん、南衛さん、井本泰造さんはこの本会議場で明確に憲法9条を守るという態度を表明されてきました。山本恵章町長は、町長に就任する以前から、憲法9条を守るという態度を鮮明にされていた方で、今も9条を守る運動に参加してくださっています。
 それで町長にお尋ねをします。この憲法9条を守るという立場にお立ちなのかどうか、御答弁ください。
町長  先ほど議員から説明のあった憲法の99条に書かれていますとおり、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に憲法を遵守し擁護する義務を課しているということ、そして憲法第12条においては、憲法の定める権利・自由をふだんの努力によって保持すべきということが、ここにもうたわれております。そのことを踏まえ、当然ながら町長としては憲法を守っていくというのが当然であるというふうに理解をしております。
 しかしながら、憲法9条の改正ということに関しましては、これは一個人としての意見しか述べられませんが、これは改正が必要かどうかということの論点の前提は自衛隊、これを武力としてみなすかみなさないかというようなところの議論からきているというふうに理解をしております。
 したがいまして、この憲法を守る、9条を守るという観点においては、当然ながらこの精神を貫いていくべきであると。それとは別に、自衛隊との整合性、これについては国を含め多くの方が議論されておりますが、それについてはまた別の議論の中に存在しているように、私は思っているところです。
 したがいまして、これをイコールという考え方にはなかなかなりませんが、9条に関しては当然ながら守っていくべき、ただし自衛隊の存在を関連づけて議論するならば、また別のいろんな意見があろうということで、そういう認識を持っているところでございます。以上でございます。

東芝  なかなかおもしろい。最後に見解が示されました。そのテーマはまた一般質問できるなというふうに思いました。現在、9条がなぜ焦点になっているのか、9条を守るという上に立って、なぜ9条改正が焦点になっているのかということをテーマに、今度は一般質問する機会があろうかと思います。これで私の一般質問を終わります。


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雑感

Posted by 東芝 弘明