議員の28年をふり返って

雑感

議員になって28年が経ちました。初当選は30歳でした。父方の親戚が新城に1軒だけという中での立候補でした。独身で両親を亡くしていて、兄妹も町内に住んでいませんでした。
中学校と高校の時代、3人の兄弟だけで笠田駅前に住んでいて、家が学生のたまり場だったので、近所の人にはすごく迷惑をかけていました。
「あそこに住んでいた子が立候補するって?」という驚きの声が駅前にはあったようです。
「誰が頼りになる?」
と聞かれて、同級生だと思いました。同級生は呼びかけると集まってくれました。笠田中学校と笠田高校の6年間でつながっていた同級生は、今でも人生の宝物だと思っています。
共産党の先輩議員は窪田武夫さん。この方が引退するのを引き継いで出た町議選挙でした。窪田武夫さんが最初から最後まで一緒に行動してくれました。620票で当選したのは、窪田さんと日本共産党への信頼、それと同級生の力だったと思います。

高校時代にロッキード事件があり、首相が収賄で逮捕されていました。世の中は汚いと強く感じていました。そんな中で出会ったのが日本共産党でした。お金に汚れず真っ直ぐに生きる人々がたくさんいることを知って、嬉しかったのです。人類は資本主義からさらに発展する。民主主義の発展の先にもっと住みよい未来があるという展望にも引かれました。
高校を卒業して半月ほど経って日本共産党に入党しました。18歳でした。和歌山大学の夜間に進学先が決まり、大学には経済学を学ぶという強い意識をもって入学しました。経済学の講義の内容は今でも覚えています。23歳で共産党の勤務員になり、7年後議員になったのが、人生の最大の転機となりました。
保守系議員の方々との交流や自治体が果たしている役割、多くの住民の方との出会いが、視野を大きく広げてくれました。

「国民の現実の苦難の軽減」のために日本共産党は誕生しました。これが立党の精神です。「困った時は共産党に相談したらいいよ」という言葉をよく聞かせてもらいますが、この言葉は日本共産党の努力が伝わって生まれたものだと思います。まわりの人々のために働くことによって、自分自身も成長したいという思いが、今も胸の中にあります。
学校給食の実現には24年かかりました。溝端町長の任期のおしまいの時に提案した役場窓口の相談コーナーは、プライバシーに関わる相談事をする上で大事な役割を果たしています。ごみの収集システムや古紙回収の制度、週1回の収集、山間部の収集などの一連の提案は、当時の南町長やその時々の課長の努力によって実現したものです。「かつらぎ町の仕組みを広域のごみ収集の基本にできる」という提案を実現したのは、当時の課長でした。可燃粗大ごみの収集は山本町長の時代でした。議長といっしょに学校のクーラー設置で予算の修正可決を提案し実現したこともありました。介護保険の保険料の独自軽減の提案を繰り返し行う中で、制度が充実し、井本町長の決断によって全国でもめずらしい独自減免ができました。学童保育の保育料の値下げでは、井本町長と意見が一致しました。

4年前に提案した乗り合いタクシーは、議員共通の要求になり、子どもの貧困対策の提案は、議員全員による提言として発展しました。
28年間を通じて議会改革が進み、議員相互の討議が充実して、一致する課題では一緒に実現を目指そうというように変化しています。議員の一般質問にも、多くの提案が含まれるようになり、住民の願いを実現する議会への努力が始まっています。

議員の仕事は、町民の願いや運動、町長の決断や職員の努力なしには実現しません。議員による提案は、新しい施策を実現する端緒となったり、大転換のきっかけになったりするものです。どれだけ広く情報を収集するか、どれだけ深く制度を把握するか、どれだけリアルに現状を把握するか、そういう努力の中で変化が起こるとき、議員の仕事に誇りと確信が生まれ、喜びが溢れ出します。
「ありがとうございました」
というみなさんの声を聞くと、鳥肌が立つほど嬉しい時があります。

第2次世界大戦では5000万人の命が奪われました。この犠牲の上にできた日本国憲法は、国民主権と基本的人権を永久の権利として宣言し、戦争放棄を原則としました。日本国は、交戦権を否認し軍隊を持たない国となりました。この憲法のもつ意味は深くて大きいと思っています。
明治から太平洋戦争終結までの77年間は、戦争に明け暮れました。陸軍と海軍を解散し、やがて戦争を放棄する憲法9条を持つようになった日本は、戦後73年間戦争をしない国として今日に至っています。ここに戦後の日本を支えた人々の誇りがあったのだと思います。
叔父さんは沖縄沖で戦死しました。従兄は自分の父を写真でしか知りません。父は戦争の影を引きずって戦後を生き、酒浸りになって死にました。母は、子どもたちに御国のために命を捧げることを教えた教師でした。母は、戦後「教え子を再び戦場に送らない」という誓いを立て組合活動に参加していました。亡くなった母が残したノートには、8月15日が巡ってくるたびに戦争のことが書かれていました。

あの戦争は、あの時代を生きた人々に深い爪痕を残しています。平和への意志を受け継ぎたいと思い、議会の発言の土台に日本国憲法の精神を据えてきました。国民を守るさまざまな制度や施策は、日本国憲法と結びついて発展してきました。このことを自覚して、議員活動を行ってきたのが、この28年間でした。
憲法9条や13条、25条は国民の中に脈々と生きています。戦前、戦争に命がけで反対した日本共産党の精神は、憲法の原則と深く結びついています。
住民の願いを実現して、住みよいかつらぎ町を。地域経済を発展させて活性化を。
笑顔を力に、人々の悲しみと苦しみに寄り添いながら、これからも力を尽くしたいと思います。


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雑感

Posted by 東芝 弘明