中学校の校則2

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校則でもう一つ思うのは、画一的な人間をつくってしまうことだ。これはかなり心配だ。
「みんなちがってみんないい」という金子みすゞさんの詩が、人々の心をとらえて、かなりの時間が経つ。しかし、がんじがらめの校則は、「みんな同じでみんないい」という考え方をつくったり、「みんな同じでなければおかしい」というかなり奇妙な考え方まで生み出してしまう。
画一的な、個性のない人間を中学校の段階でつくろうとするのは、かなり悲劇的なことだと思う。
日本人の中には、人間の中に埋没するような傾向が強い。集会をすると前の方の席が空き、後ろの方に座ろうとする傾向が必ず出てくる。これは、自分自身をみんなに合わせたいという傾向、集団の中に入っていたいという傾向なのではないだろうか。
こういう考え方が身についてしまう傾向の一端をがんじがらめの校則がつくりだしているのではないだろうか。
しかし、逆のことがいえるかも知れない。
集団の中に埋没するような傾向が日本人の中にあるからこそ、中学校のような校則の考え方が生まれたのだと。
でも、そうであるならば、このような傾向を打ち破って、人間本来がもっている「みんなちがってみんないい」というように個性的な育て方をする必要があるのではないだろうか。
個性を重視し、自由を重んじていくことが、本当の意味で相手を思いやる心を育てることにつながるとぼくは信じている。
没個性と今かなり広がっている自分勝手な傾向とは、コインの裏と表の関係にあるように感じてならない。ネットの世界では、本名を隠すことによって、むき出しの個性が発揮され、日頃思っていてもいえないような、どぎつい(ストレス発散型の?)表現で文章を書く傾向がみてとれる。
しかし、これは、匿名性の中でしか発揮できない弱々しい個性にほかならない。匿名性というのは、いわばその他大勢の中に埋没することを意味する。個人を特定できないということが、匿名性の最大のメリットであり、それは、会議の中でできるだけ後ろの集団の中に入っていたいといういうこととつながっている。
自分の正体を隠し、いいたいことをいう。いいたいことだけを読んでいれば、それらの意見は、一見個性的に見えるが、実は不特定多数という集団を隠れ蓑にして、安全なところから騒いでいるだけだ。
本当の個性は、自分の言動に責任をもつところから始まる。自分の発言に責任をもち、批判を恐れず、いうべきことをいって、存在しているのは、実に個性的だと思う。こういう人間を育てていけば、自分にも責任をもつかわりに、相手の権利も認める人間が育つのではないだろうか。
校則でがんじがらめにして、同じ格好をすべての男女に求めることによって、集団の中に埋没させることを一所懸命培っているのだ。
ぼくの中に、こういう傾向がないかと問われると赤面せざるをえない。たとえば、喪服を着ているお葬式の場に、自分だけ普通の背広で駆けつけなければならない状況に陥ったとすれば、ぼくはかなりうろたえてしまうだろう。
みんなが持っているものを持っていなかったり、持ってくるのを忘れたりすると、それだけで不安になるのだから。
これは、型から入る教育のなかで、刷り込まれたものなのかも知れない。
校則は、メリットよりもかなりデメリットが多い。このことを教育にたずさわる人々は、自覚すべきではないだろうか。


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Posted by 東芝 弘明